御霊の賜物を理解する その4

私たちは、その肉の弱さゆえに、「賜物を持っている人」を「油注がれている特別な存在」と見てしまう傾向があります。このような呼び方をする理由の一つは、御霊の力を現す役割に従事している信者が少ないからでしょう。「献身者は一部の信者」というのが、現代の教会では一般です。しかし、全ての信者はキリストの弟子となるべきであり、「平信徒」、「献身者」、「油注がれた人」などの呼び方は必要ありません。このような考え方が信仰の土台にあるうちは、御霊の現れを通して役割に従事する事はできません。私たちクリスチャンは、皆がキリストの弟子になるべきです。そして、教会全体の徳を高める為に、お互いが自分の役割を果たす事に行動に移すのなら、聖霊も、最低でも各信者に一つの役割(恵みの現れ)を示して下さいます。

第一コリント 12:7「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」

賜物は特別ではない

教会がもっと成長して、一人一人がやるべき事に従事するなら、私たちはもっと御霊の働きを見る事になるでしょう。古い契約に基づく考えのままなら、神の為に働く人が特別に見えてしまい、「油注がれた者」としてしまいます。しかし、こうした誤解を全て解き明かすには、全ての信者に聖霊がギフトとして、神から与えられているという真理を知る事です。父なる神からの約束である聖霊こそ神からの唯一のギフトであり、神の子供であるなら、皆が持っている(聖霊が内住している)のです。そして、charisma は「恵みの現れ」という訳が最適であり、全ての信者が「恵みの現れ」という聖霊の働きと聖霊の助けを通して、教会の奉仕に携わる事ができるのです。特別に選ばれた人に与えられる何か特別なものではありません。これを知ると、使徒や預言者が「誰よりも大きな権威を持っている」という事も誤解だと分かります。彼らは、その役割が教会の土台に関するという事で、責任が重いというだけです。これらの役割に携わっているからという理由だけで、他の信者よりも優れているとは限らないのです。

第一コリント 1:28-29「有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」

旧約聖書の視点は、十字架で人に明らかになった恵みを知らないものです。その時はまだ聖霊が豊かに降り注いでおらず、人々はモーセの律法を守る事で神の義を得る事ができると考えていました。イエスの十字架の御業が完成されていなかったので、キリストの義がモーセの律法の義よりも優れている事を知らなかったのです。その時代の「油注がれた人たち」は、多くいませんでした。しかし、今では全ての信者に聖霊が内住しておられ、また、全ての信者の中にキリストがおられるのです。神ご自身を持つ信者は、何かが欠けているという事がありません。私たちのうちには、神の力だけでなく、神ご自身が住んでおられるのです。

エペソ 1:3「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

「賜物」や「油注ぎ」に欠けていると考えている人は、この御言葉を深く瞑想する事が必要でしょう。この聖句を悟る時、全ての必要は私たちの中にあると分かります。

「賜物」と訳されている教会における役割は、別の言葉で言うなら、「聖霊の助け」でしょう。それをもっと見たいのなら、御霊と共に歩み、教会での奉仕に励んで下さい。そうせずに、ただどうしたら霊的な力が与えられる事ばかりを考えている人は、霊的現象を追いかけるようになります。そうすると、悪霊による惑わしを見抜けなくなり、聖霊の声と悪霊の声の聞き分けもできなくなってしまい、最初は聖霊の働きで始まったのが、いつの間にか極端な教えに走って、肉による働きとなってしまいます。

このようなものは、パウロに言わせれば、幼子の考え方なのです。恵みの現れという聖霊の助けを毎回借りて教会で奉仕するというものは一時的なものであり、一部分であり、その様なものは幼子が考えるものだとパウロは言っているのです。究極的には、御霊の助けに依存せず、信仰によって歩んでいても、愛が欠けていたら価値はありません。ですから、第一コリントの13章の理解が重要なのは言うまでもありません。結局、愛という動機で行う奉仕が価値のあるものだからです。

コリントのクリスチャンのように、自分の利益を目的としたような下心のある奉仕の働きは、アガペーに基づくものではありません。こうした考えがあるのは、恵みの現れをただの神の力として見ているからです。そうではなく、神の恵みは、相手の必要に応じて現わされるという、相手を優先する事に基づいています。つまり、相手を助けるという愛の行動です。パウロはそれを教えているのです。

第一コリント 13:8-11「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。」

恵みの現れという聖霊の働きも廃れます。それは、それ自体が虚しいものだからではなく、幼子が必要とする一時的なものだからです。聖霊が幼い信者を助けて、様々な教会の役割が機能するという、この種の聖霊の働きは、「廃れるべき理由」があります。それは、私たちが大人になる必要があるからです。パウロは、恵みの現れについて、「大人になった時、幼子の事をやめた」と言って、取るに足らないものと結論付けています。実際、霊的に成長してしまえば、その信仰が成長し、幼子が頼るような聖霊の働きは、もはや
必要としなくなるからです。霊的な大人は、信仰も成長しており、助けるべき人を優先して愛の動機で彼らを助けます。パウロはこうした考え方を持っていた為、時間をかけて一つ一つの役割がどういうものか、詳しく解説しなかったのです。パウロはむしろ、愛によって行動して人を助けるように、大人の考え方を持つように促したのです。

パウロが詳しく説明したのは、預言や異言に関しての賜物だけであって、その他が重要ではありませんでした。それは、それらの賜物だけが預言的な機能を持っており、教会の徳を高めるという愛の行動に関係する役割だったからです。ですから、パウロが注目しているのはこれらの役割自体ではなく、むしろ、愛に基づく行動なのです。

第一コリント 13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

12節はイエスの再臨の事についてではありません。恵みの現れのテーマから逸脱して、パウロはここで突然、全く異なる事を書く事ができるでしょうか?パウロは「鏡にぼんやり映るものを見ている」という表現を使って、いかに幼子の時には一部分しか見えず、視野が狭くて小さなものばかりにこだわっているかを言っているのです。しかし、大人になって成長した時には、全てのものが理解して分かるようになるとパウロは言っています。その時には、鏡で映るものがはっきりと分かるようになります。

ここの「鏡」とは御言葉を意味します。御言葉を良く理解している人にとっては、御言葉によって自分自身を理解します。ところが、霊的に幼いクリスチャンは本当の自分の姿(アイデンティティー)を知らないので、鏡(聖書)を見た時、それをまだ理解出来ていない為に、ぼんやりと自分を見る事になります。彼らにとっては、真の自己の姿が鏡(聖書)にはっきり映って見えないのです。

あなたが肉の目で見ているなら、鏡である聖書を土台としていない事になります。そうすると、一時的なものにこだわったり、一部分のものを極端に重視したりしてしまうでしょう。そうではなく、本来あなたが聖書から見えるべきものは、本当のあなた自身です。それはあなたの中におられるイエス・キリストであり、それゆえに、あなたが神の子として悟り、霊的大人として歩んでいる本来のあなたなのです。


御霊の賜物を理解する その3

「御霊の賜物」は聖霊という神の恵みであり、それが様々な形で現われるというものです。今回は、同じ恵みの現れでも、それが教会における信者の役割とは異なるケースについて見て行きます。

さて、先にも言ったように、恵みの現れを「霊的能力」として見てしまいがちですが、より重要なのは、神から与えられた聖霊です。聖霊は私たちを通して様々な形でご自身の力を現すだけなのです。

ルカ 11:13「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

「良いもの」と訳されている語は、「ギフト」を意味するギリシャ語「doma」であり、それと聖霊を比較させて、主は説明されています。文脈から、聖霊が神からの賜物(ギフト)である事が分かります。しかし、第一コリント12章の御霊の賜物と訳されている「賜物」は「恵みの結果、効果、現れ」が正しい訳なのです。「charismata(複数)」が「ギフト」として訳されてしまった為に、様々な誤解が出て来たのです。しかし、同じ聖霊が恵みを現すケースでも次の箇所は別の事を意味しています。

ローマ 6:23「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

ここの「賜物」は
「charisma」であり、第一コリント人への手紙12章に出て来るものと同じ恵みの現れの意味を持ちます。この聖句での神の賜物とは永遠の命の事ですが、それは9つの奉仕の役割と同じ種類の恵みの現れではありません。「賜物」として考えると混乱するかもしれませんが、「charisma」を「恵みの現れ」という意味で読むと良いのです。永遠の命は、まさに、神の恵みが現わされた事です。

ローマ 11:29「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」

この個所も、文脈を完全に無視してよく引用されます。ここの「charisma(単数)」を「9つの役割」と同じなどと考えていると、神から一度与えられた役割の一つは、人の上に永遠に留まる、などの解釈に至ります。実際に、あるグループの人々の間では、こうした考えが一般となっています。

ここ の「賜物」も「charismata(複数)」となっているので、「恵みの現れ」という意味です。もう一度言いますが、これはギフトという意味の語ではありません。さて、この聖句の解釈は、前の節から見て判断するべきです。

ローマ 11:26-28「こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。」彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。」

この後に、29節の「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです」と続くのですから、ここの「charismata(複数)」は第一コリント12章にある「9つの役割」とは違う聖霊の現れです。それとも、パウロはここで語っている主題とは無関係に、ランダムに教会の役割について書いているのでしょうか?

聖霊の現れを「教会における9つの役割」と定義するのではなく、恵みを様々な形で現わす聖霊の働きと捉えましょう。そうすると、福音に関して言えば、神に敵対している者に見えても、父祖たちのゆえに、神に愛されているイスラエル人の救い、彼らから不敬虔と罪を取り除く事が「神の恵みの現れであり、召命である」と分かります。

聖霊が与える?

第一コリント 12:7「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」

「charis(恵み)-mata(効果、結果、現れ)」という語を使ったパウロは、「恵み=聖霊」とし、その御霊の効果、結果、現れだと表現しました。ここでは、「恵みの現れ」が「皆の益になる為」に与えられているとあります。次の聖句も似たような事を言っています。

第一コリント 12:11「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」

ここに出てくる「bouletai」という動詞を正しく把握しなければなりません。この語は、「~するつもり」という「意図」を意味しており、これが「みこころのままに」と日本語に訳された理由です。「聖霊が意図する」という事であるなら、「御霊は、みこころのままに」という訳で間違いありません。英語でも、「as He wills(聖霊が意図するままに)」という訳になっています。

ところが、この「bouletai」は受け身の形になっています。つまり、主語が「意図する」のではなく、「意図される」と訳されるべきなのです。ですから、「主語が~される」という事になります。そうすると、聖霊が「意図される」とはなりません。つまり、別の主語が「意図される」のです。前の説を見れば一目瞭然です。

第一コリント 12:8-10 「ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」
ここでの「charisma」は、同じ恵みの現れでも、教会における信者の役割として聖霊が助けて下さるという聖霊の現れであり、それが一人一人に与えられるという事なのです。ですから、11節の「意図される」のは、聖霊ではなく、これらの役割が意図されるという訳が最適なのです。

聖霊がどの様にしてその力を現すかは、聖霊の気分次第ではなく、そのニーズ次第なのです。つまり、聖霊が意図する(決める)のではなく、恵みの現れが「決められる」のです。必要が神の力を引き出すという視点です。長血を患った女も、イエスからその力を引き出しました。イエスが癒そうと決意する前に、彼女がその力をイエスから引き出したのです。

一般には、人間の必要とは関係なく、神の絶対的な主権により何かが決められると考えられていますが、それは間違いです。まず、主は私たちの必要を知らない事はありません。その必要を無視して、それとは異なる事を決断するお方でもありません。むしろ、主は私たちの必要を知っておられ、予め用意なさって下さるお方です。ですから、病人が苦しんでいる状況においての最適な恵みの現れは、癒しという形であり、知恵が必要な人に対しては、知恵の言葉が最適な神の恵みなのです。この様にして、助け主である聖霊は、私たち全ての益を考えておられます。この恵みは、無限の恵みです。

この真理には幾つかの重要な意味があります。すなわち、恵みの現れは神の恵みを必要としている人たちのニーズに応じて、形が変わるという事実です。ですから、キリストの信者が、「私はこの賜物は持っていないから助けてあげる事ができない」という考えは、的が外れているのです。或いは、パウロの挙げた幾つかのものだけが「恵みの現れ」でもありません。恵みの現れは、全て恵みを必要としている人に神が応えるものです。神の恵みはとても豊かであるが故に、人のあらゆるニーズに応える事ができます。ですから、聖霊による恵みの現れは、人のニーズに応じて現れされるものであり、制限がないのです。

御霊の賜物を理解する その4に続きます。

御霊の賜物を理解する その2

 御霊の賜物が幾つあるかご存知ですか?御霊の賜物が9つあるとよく言われるのは、第一コリント人への手紙12章だけに限定して見た場合です。


第一コリント 12:27-28「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」 


同じ第一コリント人への手紙12章でも、パウロはここで「9つの賜物」以外の役割、すなわち、使徒、預言者、教師を例に挙げています。これらはエペソの4章にも出てきますが、28節にある「援助」と「管理」とは具体的にどのような働きなのでしょうか? 


ローマ 12: 4-8「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」 


これは、第一コリント人への手紙12章でパウロが言っている内容と同じです。この個所でも「一人ひとりは互いに器官」としてお互いが助け合うようにパウロは教えています。役割は人それぞれ違っていて、預言をする事、奉仕、教える事、勧める事、分け与える事、指導する事、慈善を行う事などを挙げています。いわゆる「預言の賜物」以外は、全てここにしか出てこないものばかりです。しかし、これらが劣っている役割であるとしたり、別の賜物が「より優れている」としたりするのではなく、教会においてどういった役割が信者にあるか、そして、信者を通して聖霊は様々な形で神の恵みを現わされると考えるべきなのです。 


そうして見た場合、第一テモテへの手紙で「監督」や「執事」といった人たちも、教会での役割、奉仕の働きであると分かると思います。つまり、一般に言われている「御霊の賜物」は、聖霊がそれぞれの働きに応じて現わされるものであり、それゆえに、数に限りがないのです。御霊の働きは無限ですから、それに合わせて毎回「~の賜物」という風に定義をしてもきりがありません。実際、パウロが挙げている教会での役割は毎回一致してはいません。私たちは、「御霊の賜物=9つの賜物」という連想をしますが、パウロは常に9つの役割に言及しているのではありません。パウロはそれらが限られたものだとか、決まった幾つかのものであると示唆してはいないのです。考えてみて下さい。パウロは自分でこれらの役割を挙げておきながら、預言、異言、異言の解き明かし以外のものについて解説をしていません。 


教会における全ての役割は、それぞれユニークな御霊の現れであり、各信者の異なる奉仕の働きであり、バランスと秩序を保ちながら、それらを通してお互いの為になるように生かしましょうというのが、パウロの言わんとしている事なのです。パウロにしてみれば、預言的な働きをする以外は、特に助言は必要ないという事だったのでしょう。9つの役割も「五役者」と呼ばれている役割も、教会における役割であって、誰かが偉いというランクを示唆するものではありません。パウロはただ単に御霊の賜物というのは様々あって、その例として第一コリント人への手紙12章、ローマ人への手紙12章、エペソ人への手紙4章、第一テモテへの手紙1章、その他の箇所などで、その例を挙げただけなのです。それらは全て聖霊の現れであって、お互いの益になる為の教会での役割なのです。 


「御霊の賜物」がしばしば「霊的能力」として捉えられているようですが、それはやむを得ないものかもしれません。私たちは神よりも神の力に注意が行きがちです。しかし、恵みの現れとして、聖霊が信者を通して働かれるという、「教会における役割」に目を向ける事が重要です。そうすれば、誰がより優れているかという考えには至らないでしょう。 


第一コリント 12:22-24「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。」 


「御霊の賜物」は、「聖霊が与えるギフト」ではなく、恵みという聖霊の現れです。神の恵みである聖霊が、その力を発揮して様々な形で現れて下さるのです。第一コリント12章における恵みの現れは、教会における信者の役割に関係しています。神から特殊な霊的能力が与えられたから何かができるという事ではなく、私たちのうちに住む聖霊が私たちの必要に応じて様々な形として現れて下さり、私たちと共に働いて下さるという事なのです。


ですから、誰かが癒しを必要としている状況において、信者が癒しの働きを病人にする時、聖霊は癒しという恵みを現して下さるのです。特別な油注ぎを受けていないと癒しの賜物を用いる事ができない、という事ではありません。実際には、各自が奉仕の働きに熱心であるなら、霊的に幼いクリスチャンでも、御霊が助けて下さるのです。


 御霊の賜物を理解する その3に続きます。

御霊の賜物を理解する その1

第一コリント人への手紙12章などで使われている「賜物」は、ギフトを意味するギリシャ語ではありません。ギフトの意味を持つギリシャ語は、「doma」と「dora」です。第一コリント人への手紙12章に出てくる御霊の「賜物」と訳されている語は「charis-mata」です。「charis」は恵みです。ですから、この語は恵みと関係しているのです。興味深い事に、ジョン・ウィクリフによる最初の英語の聖書では、もっとギリシャ語に忠実に、「恵み」と訳されています。


「charis-mata(複数)」の「-mata」の部分が「複数の結果・効果」という意味を持つので、直訳ならば、「恵みの複数の結果・効果」という訳が最適です。パウロは御霊の賜物を「聖霊の現れ」とも呼んでいます。ですから、パウロはここでの恵みを聖霊だと言っているのです。しかし、恵みの聖霊が力を現す事は、全て聖霊次第というわけではありません。多くの人々は、賜物が癒しや奇跡の鍵だと言ってそれを必死に求めているのですが、同時に、全ては聖霊次第とも言います。こうした考え方は、御霊の賜物についての誤解が原因になっています。


私たちは、御霊の賜物についてそこまで強調する必要はありません。パウロが言っているように、御霊の賜物というのは一時的なもので、いずれは廃れて行くもの(或いは、そうでなるべきもの)だからです。一方で、確かに賜物について知っておくべき事もあります。パウロも次の様に言ってから、御霊の賜物についてコリントの信者に助言しています。


第一コリント 12:1「さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。」


ここの「賜物」の直訳は「霊的事柄」です。パウロによると、この後に出て来る様々な「聖霊の現れ」は、「霊的事柄」なのです。パウロが第一コリント12章で言っている聖霊の現れ(一般には御霊の賜物という訳)は、様々な形で御霊が現わす神の力でもありますが、同時に、教会における信者の働き・役割の事です。体の各器官がバランスよく機能するように、キリストの体の各器官(各信者)も、お互いの益になる為にあります。


各信者がお互いの益になるように、9つの働きがキリストの体においてあるとパウロは言っています。恐らく、この9つが代表的な聖霊の現れとしてよく認識されていたのでしょう。これらは信者を通して働かれる様々な聖霊の働きであり、教会における役割ですから、皆が使徒や預言者ではなく、それぞれが異なる役割をする必要があるとパウロは教えました。キリストの体における奉仕の働きは、バランスと秩序があるようにとパウロは言いました。これが、第一コリント人への手紙12章から14章にかけてのパウロの教えです。


パウロがそのようにコリントのクリスチャンに教えていた理由は、コリントの教会では分裂が起きていて、多くの混乱があったからです。彼らの集会には秩序がありませんでした。パウロが彼らに注意した内容を見れば、彼らがどの様な事をしていたかを知る事ができます。彼らは皆が使徒や預言者になりたがっていました。初心の者が来た時にも、異言で話し、また、異言を解き明かす事も、預言する事も怠っていました。


さて、私たちは「御霊の賜物(正しくは、恵みの現れ)」を変に強調し過ぎています。ここで、それがあまり意味のない事を一つ挙げます。例えば、パウロ自身でさえ、知恵の言葉とはどういうものかを説明していません。9つの御霊の賜物についての一般的な教えは、それらがどういったものかを説明している部分においては、殆どが個人的な体験に基づいています。預言の賜物、異言、異言を解き明かす賜物以外の御霊の賜物については、パウロは特に説明していません。実はここに、ヒントがあります。パウロでさえ特に詳しく説明していないものは、私たちも特にそうする必要がないという事です。パウロは細かい事にこだわっていませんでした。これが理由で、ローマ書12章では異なる「恵みの現れ」が挙げられているのです。


パウロによれば、これらの教会での役割は一時的なもので、愛に基づいた行動が最後まで残るという事でした。コリントの人々は、霊的な幼子であった為に、必要以上にこれらの役割こだわってしまい、肉の思いから使徒や預言者になりたがっていたのでした。結果、彼らの働きには愛が無くなっていたのです。一時的なものであるものや、そこまで重要でないものを強調し過ぎてしまうと、本質である神の愛を見逃してしまうでしょう。だからと言って、これらの重要な役割を教会から排除してしまっても良いという事ではありません。ポイントは、全ての奉仕の働きを愛によって行う事がより重要なのであり、教会が地上に存在する限りは、恵みの現れであるこれらの役割は存在するべきです。 


御霊の賜物を理解する その2に続きます。

一度救われたらずっと救われている? その2

ローマ 8:38「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離す事はできません。」

この箇所を引用して、「永遠の保障」を主張する人もいるようです。しかし、その内容はむしろ「神の愛」です。神の愛を引き離すものは、何もないという事ですが、それを「永遠の保障」と解釈するのは、飛躍し過ぎでしょう。多くの人が気づいていないかもしれませんが、実は、人が自ら地獄の道を選んだとしても、その人に対する神の愛は変わらないのです。天国に辿り着いた者だけが神に愛されているわけではありません。私たちが常に注意を払いたい点は、神が人を天に導く事ができるかどうかではなく、それを選択する私たちの信仰があるかどうかなのです。

「永遠の保障」は「神側」からは確定しているという事ですが、この部分は正解です。しかし、恵みは「神側」なのですが、信仰は「私たち側」にある点を忘れてはいけません。新しい契約は、イエスの方では破る事はありえません。しかし、私たちが信仰を捨てて(イエスを捨てて)、別の道へ行くなら、私たちは自ら滅びの道を選ぶ事になります。神は、私たちの自由意思を尊重します。神は、人の意志を捻じ曲げて何かをする事はされません。私たちをロボットとして扱うのはアガペーではないからです。しかし、滅びの道を選んだ人さえも、主は愛しておられます。何故なら、アガペーは無条件で人を愛するからです。

「条件付きの保障は、救いの為に自分で何か貢献したと信じる人たちにだけ受け入れられる」などと、否定的に考える必要はありません。殆どの場合、アルメ二ウス主義が強調するのは、「自由意志による信仰」についてです。もちろん、極端なアルメ二ウス主義者は、クリスチャンが罪を犯したら再び罪人に戻り、救われる必要があるなどと言いますが、それは間違いであり、ここのテーマとは無関係です。

また、アルメ二ウス主義が、エペソ 2:8-9 に矛盾しているいう主張も、極端な考えでしょう。

エペソ 2:8-9「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。誰も誇る事のない為です。」

イエスを信じて救われたからといって、私たちは自分の信仰を誇る必要はありません。自由意志による信仰は、「人を高ぶらせる」とする考えは、論点がズレています。彼らのこうした極端な考えは、「信仰は神の賜物」と主張する点にも見られます。しかし、パウロがここで言っている「神の賜物とは、信仰の事ではなく、恵みです。この誤解があるのも、自由意志による信仰について、極端に否定的に考えるからでしょう。

「自由意志は人間を高ぶらせる」と懸念する人々は、その自由意志で「高慢を拒む」という「選択の意思」ができる事に気づいていません。それに、
信仰の主張が「高ぶりを引き起こす」という事については、パウロも次の箇所で既に忠告してあります。

ローマ 11:20「その通りです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がる事なく、むしろ恐れなさい。」

この聖句の通り、信者が思い上がる事のないようにすれば、救われていない人々に対して軽視する事はありません。信者は、自分がイエスを信じた事による救いについて、特に誰かに自慢する必要もありません。

信仰を主張し過ぎて、それが高ぶりに繋がる危険性を心配するよりも、信仰によって救われるという、そのシンプルな真理に目を向ける方がもっと重要です。実際、信仰の大切さを強調する事は何も悪くありません。それが「高ぶりになる」というのであれば、信仰について書いてある聖書自体も、「高ぶり」に引き寄せているという事になってしまいます。まさに、そのような否定的な思考が問題そのものなのです!もっと単純に考えましょう。信仰は神が喜ばれるものです。

ヘブル 11:6「信仰がなければ、神に喜ばれる事はできません。神に近づく者は、神がおられる事と、神がご自分を求める者には報いて下さる方である事を、信じなければならないのです。」

さて、信仰について強調する理由があるのは、このテーマに関連させて言うならば、実は、不信仰に陥らない為です。

へブル 3:12-14「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、誰も罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。」

「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」という忠告があるのは、信者が不信仰になり、神から離れるケースもあるからなのです。ここはかなりストレートに書かれているので、強引な解釈を持って来ない限り、別の意味として捉える事は難しいでしょう。

恵みから落ちる

「一度救われたらずっと救われている」事を示唆しているような箇所は、聖書にありますが、よく見ると、はっきりとは書かれてありません。一方、その反対の事を示唆しているような箇所は、先程の聖句のように、ストレートな表現が見られます。次の聖句も同様です。

ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

ἐκπίπτω の動詞は ἐκ(前置詞 out of)πίπτω(落ちる)から成り立っています。ここから明らかなように、「一度救われたらずっと自動的に救われている」わけではなく、もし誰かが「律法によって義と認められようとしている」なら「恵みから落ちてしまう」のです。律法主義や宗教によって義と認められようとする行為は、恵みを拒否するからです。パウロは、ガラテヤの手紙の中で、彼が教えているものとは異なる福音を教えている人たちは、呪われるべきだと二回も言いました(ガラテヤ 1:8-9)。

パウロによれば、クリスチャンでもキリストから離れ、恵みから落ちる事が可能だというのです。もちろん、信者がキリストを信じ、その信仰の通りに歩むのなら、その人は救われているという状態を保つ事になります。そこには、当然神ご自身の関わりもありますし、その人の信仰もあります。そして、この二つを知る事がこの種のテーマに答えをもたらす鍵です。すなわち、神が私たちを守ってくださり、成長させて下さる一方、私たちもまた、神を信頼し、絶えず神の教えに沿って歩むという選択をしなくてはならないという事です。

一度救われたらずっと救われている? その1

「永遠の保障」、「聖徒の堅忍」、「聖徒の保護」などと言われているものは、カルヴァン主義に基づいている教えであり、「一度救われたらずっと救われている」などのような主張します。*国語辞典によれば、「保障」は保護の視点で、「保証」は責任の視点を持つようです。この記事では「永遠の保障」とします。

永遠の保障

永遠の保障の教理の議論はかなり昔からあるもので、プロテスタント教派の中で最も議論がなされたものでしょう。この神学論を真理だと考えている人たちは、「聖書でこう言っているから」という自身の聖書的な立場をあまり主張せず、「私たちがこれを信じるのはこの神学的解釈を信じているから」という事を主張します。従って、あるグループに特有な教理などを一旦置いて、聖書が何を言っているかをストレートに読まないと、真理は分からないままになります。さて、
一部のグループの人々が「一度救われたらずっと救われている」と主張するのは、多くの場合、彼らの神学がカルヴァン主義に影響されているからです。この神学論を土台に発展した教団は多く存在します。

例えば、アメリカで有名な牧師、ジョン・マッカーサーもその影響を強く受けている一人です。「救いの保障」という彼の説教の冒頭で、彼は次のように書いています。

「救いが失われる事もあるとする教理は、救いを条件付きにしています。その教えは、神が私たちを救って下さったので、「神の基準」に合わせてその救いを維持しましょうと言います。しかし、私たちが失敗する時には、いつでも救いを失うと教えます。このような教えは、行いによる義の視点です。」

さて、この中に間違いがあるのが分かるでしょうか?

答えは、「救いは無条件」だと暗示する彼の主張です。彼は、恐らく、無条件である「神の愛(アガペー)」と混同したのではないでしょうか。この冒頭の後、彼は次の箇所を引用します。

エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

この箇所は、まさに「救いが条件付き」である事をそのまま示している聖句です。ただ恵みによってではなく、私たちがイエスを信じたので救われたのです。ジョンは、救いが「恵みだけ」によると勘違いしたのか、それとも、恵みばかりを強調し過ぎて「信仰」を忘れていたのか分かりませんが、救いは無条件でない事は確かです。

その後の彼の主張の内容は(冒頭の滑りとは裏腹に)信仰義認、神と人との和解、仲介者であるキリスト、神の恵みなど、いずれもオーソドックスな内容で説明しています。しかし、何故かローマの5章は永遠の保障を示していると説明もなしに主張しています。更に、次の箇所を引用して、私たちの「永遠の保障」が「神の御力によって守られている」と言います。

I ペテロ 1:5「あなた方は、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いを頂くのです。」

ペテロは、この聖句で「永遠の保障」について何か言っているのではありません。私たちが「神の御力によって守られている」のは「信仰により」とはっきりと書いてあるので、信仰がここでも鍵というのが明らかです。

ジョンの説明や弁証は、正しいものも多くありますが、説明不足なものや、強引に結論づけるような箇所も幾つかあります。だからといって、彼は偽教師ではありません。問題は、カルヴァン主義の教理であり、こうした真理ではない教えの修正が必要なだけです。

一度救われたらずっと救われている? その2に続きます。

「新しい」発見

「新しい」という意味のギリシャ語は二つあります。νέος(neos)と καινός(kainos)です。

neos

「時間的」に「新しい」という意味をもち、人に用いられるなら「若い」という意味にもなります。ぶどう酒に用いられれば「古いぶどう酒」です。通常、私たちがよく使う「古い」の反意語が、この neos です。

kainos

過去との比較して「新しい」というものではなく、前例のない、斬新な、前代未聞の「新しさ」です。

マタイ 9:17「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんな事をすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

ここでは、neos の単語が使われています。時間的に「新しいぶどう酒」を意味します。ぶどう酒はじっくり発酵させて作るものですから、普通に考えれば、「新しいぶどう酒」というのは人が好むものではありません。ですから、一般的には、酒は「古いものが良い」となるわけです。イエスが言った通りです。

マタイ 26:29「私はあなた方に言います。今から後、私の父の御国であなた方と新しく飲むその日まで、私がぶどうの実からできた物を飲む事は決してありません。」

「新しく」は kainos なので、斬新なぶどう酒になります。興味深い事に、マタイは、同じぶどう酒に対して違う形容詞を使っているのです。

次に、「新しい人」のケースを見てみます。

コロサイ 3:10「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方の形に従って新しくされ続け、真の知識に至ります。」

ここでは neos が使われているので、時間的に「新しい人」になります。

エペソ 2:15「様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、」

こちらでは kainos が出ています。ここでは、「斬新な人」の意味で使われています。

コロサイ人への手紙も、エペソ人への手紙もパウロが著者です。何故、パウロも二つの形容詞を使ったのでしょうか?

次は、「契約」という単語です。

へブル 12:24「更に、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりも優れた事を語る、注ぎかけられたイエスの血です。」

ここでは neos が出ているので、時間的に「新しい」契約になります。

へブル 9:15「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約の時の違反から贖い出す為の死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐ為です。」

ここでは kainos で形容されています。「斬新な契約」の意味になります。両方ともへブル人への手紙の中にあるので、同じ著者による、同じ名詞に対する二つの形容詞が使われている事になります。

まとめ

こうして見ると、同じ著者が意図的に二つの形容詞を使っている事が分かると思います。使徒たちが御霊の霊感によって聖書を書いた事実からすると、これらの形容詞の使用は偶然だろうという「憶測」よりも、意図を持ってそう書いたという「憶測」とする方が無難でしょう。そうすると、これらの「新しいもの」(ぶどう酒、契約、人)は、「時間的に新しい」だけでなく、「斬新」でもあるのです。

イエスが最も嫌った事

福音書を読むと明らかなのですが、イエスが非難した人たちは決まってパリサイ人と律法学者でした。彼らは律法主義で、いつも宗教的な考えで神を見ていたのです。彼らは、実際には、モーセの律法よりも自分たちの伝統的な教えを重視していて、その規律を守る事ばかりを義の基準としていたました。それゆえ、律法を守る事による義の獲得が彼らにとっての神となり、それはもはや偶像礼拝であったわけです。モーセの律法は、何が悪い事かを示す為にあるもので、それ自体は悪くはないのですが、彼らはモーセの律法を通して義を獲得するという事に考えを向けてしまいました。

律法的な愛

こうした勘違いは、例えば、人を愛するという、本来はモーセの律法の本質をとらえた神の真の教えであるべきものが、人を愛目的が自分の義を求める為であるなら、愛の実践ですら律法主義になってしまうのです。愛の言動によって、神や人に自分の義を認めてもらうと考えるなら、それはもはやアガペーの愛ではありません。

或いは、愛が大事だと教えるのは良い事ですが、それを人に押し付けてしまうとそれはアガペーでなくなります。私たちが愛し合うのは、主がまず私たちを愛して下さったからです。神の義を得る為にそうするのではなく、既にキリストを通して神の義を得たクリスチャンは、神の愛によって、お互いを愛する事ができるのです。

律法主義の義

さて、こうした宗教的、律法主義の考えは神が最も憎むものです。何故なら、そのような考えはいつも自分を義とみなして、相手をさばいてしまうからです。そこには赦しや憐れみがありません。いつも自分を正当化し相手を見下します。パリサイ人と律法学者は常に自分たちの正しさを主張して、彼ら以外は全て罪人だと裁いていたのです。彼らが清い心で神の言葉に忠実で律法を全て守っていたならイエス様も納得していたでしょう。ところが、彼らの義は偽善でした。

イエスは彼らに対して、たとえ話を用いて彼らの嘘を指摘しました。多くのたとえ話の内容は、ユダヤ人が最初に救いに預かる民であったはずが、罪人や異邦人が先に神の国に入ってしまうというものでした。痛烈な皮肉よって、主は彼らの愚かさを暴露したのです。彼らは選ばれた民として、モーセの律法を通して、誰よりもキリストを知っているべきでした。律法はキリストに導くための養育係だったからです。

律法主義の考えに染まったパリサイ人や律法学者は、モーセの律法を行う事による義を求め続け、同時に、そうしない人は罪人だと裁いていたのです。しかし、モーセの律法を守る事ができた人は、誰もいませんでした。人は誰も律法を守る事ができないからであり、それゆえに、キリストによる救いの道を神は用意しておられたのです。

ローマ 9:31「しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。」

人類の歴史上律法を完全に守る事ができたのは、イエスしかいません。パリサイ人や律法学者は、自分たちが守れない戒めを人々に押し付け、いつも自分たちの有利になるようにモーセの律法を利用していた偽善者でした。彼らは貧しい人とやもめの家を食いつぶす為に、モーセの律法を乱用し、自分たちがそれの専門家である立場を乱用していたのに過ぎません。このような支配と束縛は、サタンからのものです。

律法と恵み

恵みに反する教えは全て宗教的なものです。ですから、律法主義の教えは神が最も嫌うものなのです。それは、イエスの恵みが私たちに届かないように邪魔をするものです。イエスの十字架を妨げるような忌まわしいものであり、信仰によって救いに至るという真理を台無しにする教えです。

マルコ 9:42「また、私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまう方が良いのです。」

パリサイ人と律法学者は、イエスを信じようとする人々の邪魔をしました。あらゆる機会を捉え、イエスの福音の邪魔をしたのは彼らでした。

パウロもまた、彼がまだサウロであった時、大勢のクリスチャンを迫害していました。まさに、彼は神の働きを邪魔していたのです。彼にしてみれば、そうした愚かで恐ろしい事に携わっていたのにも関わらず、イエスが顧みて下さったのは、恵み以外の何ものでもなかったと思ったに違いありません。

I テモテ 1:15-16「キリスト・イエスは罪人を救う為に世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私は憐れみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠の命を得る事になる人々の先例にする為でした。」

純粋な恵み

今日、様々な教派の下で教えられている福音は宗教的な教えが混ざってしまっています。初代教会でも、そうした事は
起きていました。ガラテヤの教会に割礼を持ち込んだユダヤ人の信者は、異邦人を律法の下に閉じ込めようとしたのです。パウロは彼らをにせ兄弟と呼びました。

ガラテヤ 4:17「あの人たちはあなた方に対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなた方を私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。」

パウロが、「あなたがたに恵みがあるように」と彼の手紙の中でよく言ったのは、主に対する恵みの理解があったからでしょう。

ガラテヤ 2:21「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」

私たちは恵みで始まったのですから、一切の律法主義を捨て去り、恵みの中に歩み続ける事を心がけたいものです。

罪は赦されているから罪を犯しても良い?

恵みは罪を犯しても良いという許可を与えるものではありません。罪が赦されているという真理を軽んじ、罪から離れて、義の道へ進む事をしないクリスチャンが近年増えて来ています。このような教えはハイパー・グレイス(極度の恵み)と呼ばれていて、十字架の恵みを曲解しています。

罪と死の原理からの解放をきちんと理解すると、人は神の恵みを乱用しなくなります。何故なら、人の罪を赦した神の愛がその人の内に働くからです。

I ヨハネ 4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

私たちの罪が赦されているのは神の愛ゆえです。この十字架の愛は人を罪から解放し、ついには罪を犯さないようになるまで、完全に成長させる力を持ちます。私たちがキリストの愛に目を向けて信仰によって進むなら、必ず完全に成長を成し遂げる事ができるのです。この愛は決して軽んじられるべきではありません。

ローマ 2:4「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導く事も知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

神の愛とその恵みがきちんと教えられているのなら、人は「赦されているのだから罪を犯しても大丈夫」という考えには至りません。そう考えている人は、恵みについて聖書が何を教えているか分かっていません。ハイパー・グレイスの教えは、神の恵みを自分勝手に都合の良いように解釈してしていると言えますが、結局のところ、恵みを正しく理解していないだけなのです。

一方で、律法主義者にしてみれば、あらゆる細かい事にこだわり、上辺だけの行いばかりに意識を向けているので、恵みを知りません。こちらもイエスの恵みを理解していない人たちです。

I ペテロ 2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒された。」

私たちが罪を離れ、義の為に生きる為に、キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われたのです。私たちは罪から離れて、神の義の為に生きられるのです。しかし、それは自動的にそうなるのではなく、私たちの選択によるものです。自由になった私たちでも、また再び肉の思いによって、罪の奴隷のように歩む事もできます。しかし、イエスに与えられたその自由は義の為に生きる為なのです。

私たちの選択とは何でしょうか?それは成長するという選択です。成長なしにそのまま肉に属する者として歩む事も可能であり、そういうクリスチャンはコリントの教会にいたクリスチャンでした。

I コリント 3:1「兄弟たち。私はあなた方に、御霊に属する人に対するようには語る事ができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」

パウロは「キリストにある幼子」という表現を使って、コリントのクリスチャンを幼子として扱いました。彼らは肉に属する人たちであり、様々な混乱や分裂を起こしていました。このように、クリスチャンは誰でも肉によって歩む事が可能です。しかし、成長を目指す考えを持つ事もできます。それこそが、勝利を得るクリスチャン生活に欠かせないものであり、それは御霊によって歩む事を意味します。

II ペテロ 3:18「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい...」

私たちが成長するのは、「イエス・キリストの恵みと知識において」です。注意しなければならないのは、イエスの恵みは私たちが永遠の命を得る為に必要だったものだけではありません。その恵みは、私たちを成長へと導きます。主の恵みを知れば知る程、私たちは罪を犯さないように、強くなる道を選びます。

「反省」という宗教的な悔い改めが私たちを成長させるのではありません。それはかえって、私たちのうちに罪意識を生じさせ、私たちを束縛してしまいます。しかし、十字架の恵みを見る時に、私たちはその恵みの力によって、罪から離れて行きます。どうしてそうなるのでしょう?それは、人が主の恵みを知った時に、主の愛に引き寄せられるからです。主の愛が分かったからこそ、私たちは悔い改める(考えを変える)のであり、悔い改める事によって罪を赦されようとする行為は、自分で義を獲得しようとする宗教のようなもので、やるべき順序が逆です。

エペソ 4:13「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」

II ペテロ 3:18 によれば、私たちが成長するのは、「イエス・キリストの恵みと知識において」です。何故なら、「神の御子に対する信仰と知識において一つ」になる時に、私たちはキリストの幼子から霊的大人になる事ができるからです。イエスに関する信仰と知識を増すにつれて、私たちは大人として歩める、義の道を歩めるようになります。

へブル 5:12-13「あなた方は、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなた方は固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」

幼子は乳しか飲みません。堅い食物は義の教えに通じている大人の食べ物です。ですから、イエスに関する知識が増えると、義の教えに通じる者として歩めるわけです。肉に属する思いを捨て、キリストについての恵みと知識に関する御言葉を昼も夜も口ずさみ、思考の一新によって、私たちは自分自身を変える事ができます(ローマ 12:1-2)。これが聖書の教えている成長の方法です。

古い物が良いという考え

ルカ 5:39「また誰も、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」

一般に、発酵の過程を経て月日がたったぶどう酒は、美味しい物として認識されています。それを飲んだ人は、新しいぶどう酒は美味しいわけがないと考える事でしょう。それは偏見ではなく、一般常識として知られています。しかし、ここでイエスが言われている新しい物とは、神の成された新しい事でした。人がぶどう酒で考えているようなものとは違い、神の成された新しい事は古い物よりも良かったのです。それは、古い契約が新しい契約に変わったという事です。

ですから、新しいぶどう酒が新しい契約であるなら、どうしてクリスチャンが古い物、古い契約を良いという事があるでしょうか?しかし、恵みをあまり体験していないと、イエスの教えよりもモーセの教えが良いとし、律法主義になる傾向があるかもしれません。しかし、聖書は新しい契約はより良いものだと示しています。実際、神の恵みを知った信者の中では、古い契約を良いと考える人はいないはずです。

古い契約は旧バージョンのソフトウェアのようです。アップデートされたソフトウェアを用いれば、その会社からサポートを受けられますし、新しい機能の恩恵も受けられます。モーセの律法を遵守する生き方で良いと考えるなら、その人はイエスの教えを最優先させないでしょう。その必要性を感じないからです。しかし、イエスは、「まことに、あなた方に言います。取税人たちや遊女たちが、あなた方より先に神の国に入ります」と律法学者やパリサイ人たちに言われ、彼らがモーセの律法を通して得ようとしていた義は不十分だと解き明かされました。<

考えてみて下さい。取税人たちや遊女たちはモーセの律法を守って歩もうとしていた人たちではありませんでした。律法学者やパリサイ人たちからすれば、彼らは軽蔑視されていた人たちです。皮肉にも、モーセの律法から遠くにいた人たちの方が、先に神の国に入るという事が起こったのです。何故なら、そうした人々がイエスの教えを受け入れ、モーセの律法に詳しい人たちがイエスの教えを拒み、モーセの教えに従う事を決めたからです。彼らは、古いもの、古い契約がが良い思っていました。

ルカ 5:37-38「また誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんな事をすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」

イエスが祭司や律法学者に会う時は、必ずといっていいほど何かの言い争いに巻き込まれました。彼らが主張するのは律法ですが、イエスは神の恵みとまことを実現する為に来られました。イエスの新しい戒めは古い皮袋に収まりません。新しい人を着ないと新しいぶどう酒は保たれません。 モーセの律法は人を義にする事ができない、不完全なものです。悪いものではないのですが、不完全なものです。キリストの十字架によって成就され、新しい戒めにバージョンアップされる必要があったのです。しかし、多くのユダヤ人はこの神のなさろうとしていた新しい事に興味がありませんでした。 慣れ親しんだ古いものは良いと考えていたのです。

もし、古い契約が新しい契約よりも良いバージョンであったなら、イエスの教えや、その十字架での御業、その死は全て無駄だったのです。キリストの十字架の贖いを軽んじている人たちは、様々な旧約時代の祭りや儀式にこだわり、それらをする事によって、何らかの恩恵が未だにあると信じています。しかし、古い契約によって生きる生き方は、もう過ぎ去ったものです。恵みから落ちて、モーセの律法に戻るのなら、イエスの十字架を軽んじる事になるのです。律法学者やパリサイ人のように、モーセにつくか、イエスにつくか、どちらかしかないのです。

現在、神はイスラエル人を始めとするイエスを知らない人々を裁きません。モーセの律法に従って、神は人を裁く事を終えられたからです。それは、モーセの律法に基づく裁きは、全てイエスが負われたからです。ですから、神を知らない人たちには、神を信じる機会がある限り、神の恵みによって救われるチャンスがあります。古い契約はモーセの律法に基づく裁きと刑罰を訴えますが、新しい契約は神の恵みと罪の赦しを訴えています。

例えば、アロンの息子たちが間違った捧げものをした時、天からの火によって彼らは死んでしまいました。それが起こったのは、イスラエル人にモーセの律法を守らせ、彼らが偶像に走らせない為、罪を犯させない為でした。神が恵みについて明らかにされていない時代には、その時代の人々はモーセの律法だけが頼りでした。しかし、こうした事は古い契約の下での出来事なのです。現在でも、モーセの律法を守って生きている人たちがいますが、彼らがモーセの律法を破ったからといって、その刑罰が彼らの上に臨む事はありません。モーセの律法による義(刑罰)ではなく、キリストの義(赦し)によってアップグレードされたので、全ての人々は赦されています。その赦しを信じて唯一の救い道を選ぶか、それを拒んでしまうかは私たち次第です。

マタイ 5:20「私はあなた方に言います。あなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の御国に入れません。」

「律法学者やパリサイ人の義にまさる」義とはキリストの義です。それは、イエスを信じて義と認められる時に与えられる義です。それはモーセの律法を守る事による、むなしい自己の義の獲得ではなく、栄光に満ちたキリストの義を身に着ける事です。

ローマ 10:4「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者全てに与えられるのです。」

多くの人は恵みを理解していません。神は災いを与えて私たちを懲らしめているのではなく、全ての罪の赦しを宣言されたのです。神はイエスを通して人の罪を赦されました。イエスが代わりに、罪の刑罰をお受けになりました。この恵みによって生きる教えと、モーセの律法によって生きる教えは相反しています。

ですから、イエスを信じていながらも、まだモーセの律法にこだわっていたり、律法主義的な考えに傾倒している人は、考えを完全にアップグレードする事をお勧めします。そうでないと、あなたの律法的な考えは自らを律法という束縛の中に再び置いてしまうからです。

ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

イエスにつく者は、古い契約ではなく、新しい契約の下にいます。新しく生まれ変わった私たちは、新しい歩み方になっているべきであり、その為に、新しい契約があるのです。クリスチャンの歩みが正しい方向に向かっていない理由の一つは、考えが古いままだからです。新しい契約の教えを知り、心の一新(思考の一新)によって私たち自身を変えなければいけません。

II コリント 3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

体験主義の問題 その2

この近い将来において、癒しがもっと頻繁に起こる事になります。その時には、癒しを見て過剰に興奮してしまう幼い考えを持つ信者よりも、どうしたらイエスのように歩める事が出来るだろうかと、大人の考えを持つ人がより増えているでしょう。そのような人々は、しるしを求めているのではなく、御霊の実を求める事、霊的に成長する結果として、しるしが現されるようになる事を知っています。もはや、癒しが神の御心かどうかは既に問題ではありません。これと似たように、聖霊の声を聞くかどうかが問題ではなく、正確に聞いているかどうかが重要なのです。或いは、ただ奉仕をすれば良いのではなく、自己満足の奉仕から解放され、真に人を助ける事を優先させ、奉仕の働き自体が主との共同作業であると悟る事が重要なのです。

仮に、体験主義者の強みがあるとすれば、それは霊の世界に関して強い確信を持っている事くらいでしょう。理論ばかりで行動しない人は無難な道を通っているかもしれませんが、それは多くの場合、信仰によって歩んでいない事でもあるので、神はそのような人たちを通して御業を行なう事ができません。もちろん、そうした人々でも、「用いて下さい」とは口にします。しかし、信仰による一歩を踏まないなら、神は共に働く事ができないのです。

一方、体験主義者を神が用いるケースがあるのは、彼らは彼らなりの間違った考えがあるものの、とにかく行動に移すからでしょう。過去の歴史でも、行動力のある人は多くの奇跡も体験しました。もちろん、そのような人たちの中から、カルト的な方向に行ってしまったケースもあります。体験主義者の多くは、きちんとした聖書の理解に乏しい為に、霊的に不安定であり、癒しと悪霊追い出しの結果も不安定です。聖書の理解が中途半端なら信仰も不安定です。何故なら、御言葉は私たちの信仰の土台であり、そこがしっかりしていないと不安定になるからです。

神が御力を現しやすいのは、神の御心に完全に一致している人を通してです。しかし、完全に神の御心と一致していなくても、行動に移す人でも、神はある程度の御力を現して下さいます。理論ばかりにこだわってあまり動かない人は、神の力をあまり体験しない人でしょう。「多少の間違いは良い」としてはなりませんが、全てを完全に熟知してから行動に移すという考えも最適ではありません。理想は、正しい聖書の理解を持ちながら、行動に移す人である事です。

総合的に見るバランス

多くの教会は偏っています。霊的現象に振り回されている一部のカリスマ派の人々を見て、賜物よりも御霊の実だとして、御霊の賜物には一切かかわらない立場を取る人々がいます。しかし、その立場にいる人々も「中途半端」なのです。御霊の賜物も御霊の実も、神からの良いものであるという事に気づくべきです。多くの教会は、自分たちの教理や考えに合わない部分は避けたり、自分たちの強みだけを強調したりします。時には、非難する事によって、自分たちのグループの優位性を主張する事もあります。そうして、何かに偏った考えを堅く保持しているのです。

例えば、御霊の実を口酸っぱく言うグループは、神の愛を強調する一方で、同じ御霊の実である「自制」についてはあまり考えません。或いは、愛が信仰より優れたものだからといって、信仰をおろそかにして愛を求める事をしてみたりします。或いは、「吟味が大事」と言いつつも、預言の吟味を全く実践していないグループもあります。その他にも、異言は認めていても、その実践に関しては消極的であったり、宣教命令が全ての国の人々をキリストの弟子とする事にまで及ぶのにも関わらず、未信者を信者にするだけで満足していたり、リーダー的な役割が複数あるのにも関わらず、一人のリーダーが全てをこなしていたり、様々な問題があります。要するに、今日の教会で起きているありとあらゆる事は、全てが中途半端なのです。現存しているほぼ全ての現代の教会は、コリントの教会よりも幼いのにも関わらず、人々は聖霊から最新の啓示を与えられていると高慢になっているのです。

私たちがこのようにして、何かに偏ってしまい、バランスを保てないのは、その偏った状況が楽だからです。幼い考えを持つ私たちは、総合的に考え、深い洞察力を持っていません。考えについては大人でありなさいとパウロが言っているのは、総合的なバランスを保ち、優先順位を明確にしなさいという意味も含みます。この二つが明確になるには、全体が見えていないと不可能です。コリントのクリスチャンは肉に属していた霊的な幼子でしたが、彼らはいつもバランスに欠いて秩序を乱していました。彼らは何を優先するべきか、全く理解していなかったのです。彼らが唯一優先していた事といえば、他人よりも自分自身の事でした。

理論ばかりで実践がないならそれは霊的な歩みではありません。理論派は聖書に詳しく慎重な人たちかもしれませんが、概ね聖霊の導きに関する証しを持っていない人たちです。一方、体験主義の人たちは、聖書という究極の神のマニュアルをしっかり読まずに、個人的な霊的体験に傾倒し、個人的な解釈による教えをしてしまう傾向があります。両者に共通しているのは、どちらもバランスを欠いている所です。聖書を読んで、自分の体験とイエスの教えが一致するかどうかを確かめる事(善悪の判断)、これが大人の考えです。

ヘブル 5:14「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」

体験主義の問題 その1

全ての霊的体験は、必ずしも神からのものとは限りません。それを知らずに霊的体験ばかりに傾倒してしまうと、聖書の真理を軽んじてしまいます。ある人々は、自分の体験したものを重視してしまいがちで、聖書に書かれているかどうかよりも、自分の体験に基づいた考え方を優先します。霊的体験にこだわり過ぎると、それが全ての判断の基準になってしまい、聖書の解釈の基準にさえなってしまう事もあるでしょう。聖書を主観的に捉えるなら、そこから独自の見方や解釈が生まれて来てしまいます。

私たちの体験は、聖書の真理を証しするものであるべきです。私たちが真理をより理解する為に、様々な「良い体験」があるべきです。聖書で既に明らかになっている真理を、実践を通して私たちは体験的に学びます。全ての霊的体験が神からのものではないという事は、幾らかの霊的体験は、「悪いもの」という事になります。参考にすべきでない体験は、聖書の解釈に必要ありません。この事を理解していなければ、聖書の理解の仕方が、独断と主観の強いものになりがちです。カルト的な教えは全て、何らかの霊的体験に基づくものであり、聖書の真理に沿っていないものです。真理の言葉は私たちにとって最終的な神の権威であり、私たちの体験に基づいて真理が解釈されるべきではありません。むしろ、私たちの体験が御言葉によって吟味されるべきなのです。

バランス

聖書の御言葉は実践的であり、力のある生きた言葉なのですが、御言葉を実行しないなら単なる机上の理論にしかなりません。そうなれば、御言葉の力を体験する事がなく、聖書の理解もせいぜい半分くらいでしょう。だからといって、霊的体験ばかりを追い求めるような考えにも問題があります。霊的な体験を必要としながらも、それらを追い求めずにするには、どうしたら良いのでしょうか?

マルコ 16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。」

イエスは、信じる人々にしるしが伴うと言われました。信者がしるしを追うのではなく、信者として歩むなら、しるしが伴うと教えられました。ですから、しるしを追い求める考えをやめ、真のキリストの信者として歩む事を心がければ良いのです。

しかし、体験主義者は霊的体験を聖書によって吟味する事を怠りがちで、やたらと「聖霊がこう示した」と言って、自分の考えなどを主張します。ヨハネは、「霊だからといって、みな信じてはいけません」と注意しました。従って、聖霊かどうかを試す事は吟味をする上で重要な事です。イエスの教えに反しているようなものは、必ず吟味した上で判断するべきでしょう。そうすれば、闇雲に霊的なものを全て聖霊からのものとせず、私たちの信仰を霊的体験ではなく、御言葉に置く事ができます。霊的体験に信仰を置くなら、それは結局、五感に頼るものであって、何かを感じた(見た・聞いた)事にとらわれているだけなのです。そうした体験を追い求めている人は、それらが過去の出来事になった時には、新たな霊的体験を追求しないと満足しなくなります。

聖書の理解と体験

体験主義者が勝手に聖書を偏って見て、そこから間違った教えをしてしまうと、厄介な事になります。周りの人にとっても大きなつまずきになります。例えば、「先祖・家系の呪い」は厄介な教えの一つです。それを悪霊追い出しのミニストリーに必須な知識だとしているなら、その方法論による成功の体験がつまずきになるでしょう。この教えをする人々でも何らかの成功を収める事はできます。しかし、彼らが成功するのは、彼らの信じている複雑な方法に従えばという事であって、実際には無駄なステップがあるだけで、決して効率の良いやり方ではありません。全ての呪いは既にイエス・キリストによって十字架で取り除かれたのですから、それを信じて悪霊に命じるだけで事は終わります。しかし、この単純な「信仰の法則」を知らずに他の「方法論」で問題を解決しようとするなら、時間が無意味に掛かるだけでなく、どこかで制限をかけてしまう考えがある為に、効果的に結果を出す事にはなりません。

「結果が出ればそれで良い」と考える人は、より聖書的な方法を取れば成功率が上がる事を知らないからです。五割くらいの聖書の理解で悪霊を追い出す事をするなら、半分しか成功しないと言っても過言ではありません。ある人は、「神がその独自の方法を示して下さった」と考えるかもしれません。しかし、この場合、私たちが頑なに自分たちのやり方にこだわるからであって、本当は神の完全な御心ではありません。神が私たちの考えた方法に譲歩するケースがあるのは、私たちに早く自由になってもらいたいからです。ですから、例え私たちが、聖書的ではないおかしな考えを多少持っていても、目標が人を解放する為である時には、そのこだわりの方法を通して、ご自身の力を現す事をお許しになります。

しかし、私たちが適当に聖書を理解しているという事を悪霊が見抜いてしまうと、その弱さにつけ込んで攻めて来ます。そうなると、独自の癒やし方や悪霊の追い出し方を強く信じている人たちは、悪霊の対抗に対してどうして良いか分からなくなります。実際に、独自の方法論にこだわったミニストリーは必ず限界に達します。

例えば、あなたが他の人を癒やす事と自分を癒やす事は全く別であって、それらはそれぞれ違う方法を用いなければならないと信じるのなら、あなたは独自の方法論によって癒やしを得ようとするでしょう。しかし、聖書の原則は、癒やしが神の約束である事を堅く信じ続け、悪魔に徹底的に対抗し続けるなら、癒しが起こるというものなのです。これに余計なものをくっつけて、独自の方法を作ってしまうなら、多くの場合、条件が複雑になりがちで、限定されたケースでしか癒やしが起こらないでしょう。何故なら、余計な要素を盛り込んだからです。

聖書的に正確無比ではない場合でも、時には「結果」が出ます。先に言ったように、神は私たちの「独自の信仰の法則」を特に喜ばれませんが、私たちの心の動機が純粋であり、神に頼り、真剣に奇跡を望んでいるなら、ご自身の栄光を見せて下さる時があります。その理由は、神が憐れみ深いお方であるからです。私たちが細かい事を知らない場合でも、神の御心は人々を救い、癒やし、解放される事だと
私たちが信じるだけでも、主の力が働く事があります。しかし、もう少し聖書的な理解を加えるなら、更に神のわざを見る事になるでしょう。信仰の法則については、以下の五つが原則となります。

  1. 神に対する信頼
  2. 御言葉に対する信頼
  3. イエスキリストの御名による権威
  4. 御霊の力
  5. 信者の立場と敵に対してやるべき事の理解

ほぼ全ての癒し・悪霊追い出しをする人たちは、最低でもキリストの名によって命じ、幾らかの御言葉を信じて実践している事でしょう。致命的な間違いがあまりない場合、結果は出る事もあります。しかし、それが意味するのは、幾らかの間違いが原因で、失敗例もあるという事です。私たちは五割くらいの結果が出れば満足するべきでしょうか?残りの五割を無視して、「こだわりの方法論」に固執しても良いのでしょうか?頑固に独自の方法にこだわる人たちは、自分たちの失敗例を見ても、自らの理解不足が原因である事実を棚に上げて、「神の御心ではなかった」と言い訳をするのです。 

この種のテーマになると、多くの人々は、癒しの結果よりも謙遜さを追い求めるべきだと言い始めます。この記事のテーマの通り、体験主義者は偏っており、癒しを追い求める事は正しくありません。しかし、癒しと御霊の実を比較して、どちらが良いかという議論を好む人々の多くは、御霊の実さえ追求していれば、癒しが起こらなくても良いという、こちらも極端な考えになっています。より正しい理解は、癒しなどのしるしは、私たちが御霊の実を追求するにつれて、より現れて来るという事なのです。ですから、御霊の実を真に追求していると主張する人々は、癒しも現しているべきなのです。イエスは、全てにおいてバランスを保っていました。

按手について 2

へブル 6:1-2「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠の裁きなど、基礎的な事をもう一度やり直したりしないようにしましょう。」

「手を置く儀式」とは、いわゆる「按手」の事ですが、これは「キリストについての初歩の教え」です。一般に、私たちは「按手の儀式」にこだわり過ぎています。私たちがどのようにバプテスマを授けるか、或いは、聖餐式の些細な事柄にこだわり、宗教的に熱心になると、神を愛し、隣人を愛する事を忘れてしまいがちになります。しかし、私たちはそうした上辺だけのものや初歩の教えを後にして、成熟を目指して進む必要があるのです。

認められる為の按手?

人は誰でも誰かに認められたいと望んでいます。しかし、クリスチャンの場合は、自ら進んで人から何かを認められる事を望む必要はありません。他の人があなたを何らかの形で認めたり、評価したりするのなら、時にはどうする事もできませんが、あなた自身から人にりっぱだと認められようとする必要はないのです。

ヨハネ 1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供となる特権をお与えになった。」

イエスを信じた者は「神の子供となる特権」があります。新改訳聖書の「特権」はギリシャ語の exousiaであり、「権威」という意味です。御父ご自身が私たちを「神の子」としての権威を授けて下さったのです。そうであるなら、私たちは他の人に認めてもらう事を望む必要はもうありません。私たちの神が私たちを最高の形で認めて下さったからです。

肉の思いで歩む人は誰かに認めてもらいたいという欲求を常に持っていて、未信者の場合なら、あらゆる面において、彼らのその欲求に対する執着心が表に出ます。しかし、クリスチャンである私たちは、そうした欲求(肉の思い)から解放されているのです。それにも関わらずあるクリスチャンたちがその束縛の中にいるのは、本来の自分自身を知らないからなのです。自分自身を知らなければ誰でも不安になるものです。そして、その不安を取り除く為に、誰かに認められようとします。しかし、誰でも自己承認を追求するなら、自己中心的になります。

按手と任命とアイデンティティー

新しい契約の下でも、リーダーを任命する為に按手を行います。しかし、按手の儀式を必要以上に重んじてしまうなら、それが周りの人に認めてもらう為の儀式になりかねません。私たちが気づかなければならないのは、リーダーを任命する為の按手は、それを受ける人たちが、既にふさわしい働きや結果を出しているから行われるのです。例えば、バルナバはエルサレムの教会からアンテオケに既に派遣(送られる=使徒)されているリーダーでした。使徒としての働きが既にあり、それが周りにも認められている上で、聖霊は他の使徒たちに言われたのです。

使徒 13:2「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、私の為にバルナバとサウロを聖別して、私が召した働きに就かせなさい」と言われた。」

バルナバとサウロは既に使徒や預言者としての働きをしていました。按手が彼らを使徒にさせたのではありません。しかし、私たちは按手が鍵だと勘違いして来ました。このような誤解は、近年の使徒と預言者についての教えが影響しています。使徒や預言者を「霊的なエリートのタイトル」などと考えているのなら、それは間違いです。実際、五役者よりも優れたポジションは「神の子」です。五職にこだわる人は、その役職の範囲までしか成長しません。しかし、「神の子」として歩む人は、父なる神から全てを相続する者として、大胆に地上を治める事をします。私たちが持つべき正しい理解は、「神の子(アイデンティティー)」として「五職の役割を果たす」という事です。アイデンティティーは神の子ですが、五役者は御国の仕事であり、神と人に仕える事です。

按手の意義

当然ですが、按手自体には力がありません。按手は単なる儀式です。ですから、大事なのは按手を受けたかどうかではなく、その按手にふさわしい歩みをして、結果を出すかどうかが重要なのです。按手を受けたからといっても、それ自体が神からの絶対的な保障とはならないのです。近年、多くの教会において、按手の儀式が絶対的な神の御業と勘違いされています。その結果、言動がおかしな使徒や預言者が世界中で増えています。

I テモテ 5:22「誰にも性急に按手をしてはいけません。又、他の人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。」

パウロは、誰にでも軽々しく按手してリーダーとして認める事を避けなさいと言っているのです。按手によって誰かが五役者のタイトルを使えるようになるのではなく、既に働きの実を結んでいる人たちに対してリーダーや周りの人たちが祝福する目的で、按手が行われるのです。何の実を結んでいないのに、「性急に按手をしてはいけません」とパウロは言っているのです。もう一度言いますが、按手をすれば五職の役割を始める事ができるのではなく、ふさわしい人格であり、その行いにも、結果が伴っている時に、按手という祝福の為の儀式が行われるのです。従って、「あの人が神に用いられているのは、~先生による按手があったから」ではないのです。

人に認められないと不安を覚える、或いは、認められたいという高慢の思いは私たちが古い考え方で歩んでいるからです。しかし、キリストが私たちの内におられる事が分かれば、私たちに何かが欠けているものは存在しません。もちろん、その真理を頭で理解しているだけで、実際にはその道を歩んでないのなら、その人はまだ古い人の歩みを続ける事になります。実際に新しい人として歩み始めていない間は、どこかで古い考え(肉の思い)がその人の中で強く働いているので、多くの場合、真理によって思考が一新されていないのです。

私たちの神は私たちを「神の子」として神の国に受け入れて下さいました。五役者のタイトルにこだわるのなら、それは「神に仕える者」という古い契約の視点なのです。旧約時代の「神に仕える者」よりも新しい契約の下での「神の子」がより優れているのは明らかです。私たちが目指す最終目標は「神に仕える油注がれた者」ではなく、イエスが示された「神の子」としての歩みなのです。

結論から言えば、私たちは人に認められる事を追い求める必要はありません。しかし、人に認められる事自体は悪い事でもありません。良い評判は良いのです。ただ、それを求めて得ようとするのではなく、結果としてついて来るようにするのが正しい捉え方です。結果ですから、それは他の人たちの評価であって、あなた自身とは関係ありません。彼らが間違って評価しているとしても、それは明らかになります。重要なポイントは、あなた自身の努力によって、他の人の判断をコントロールしようとしない事です。何故なら、あなたは神の子として歩める特権を与えられたので、恐れるものは何もないからです。

按手の目的は、他の人の祝福が主なものなのですが、それに余計な権威を与えてしまうと、按手を授けた人や受けた人が特別扱いされてしまいます。按手は絶対的な儀式ではないのですから、あっても無くても構いません。按手を受ける事は、全てが上手く行く保証ではありません。たとえ、神があなたを使徒だと任命して、使徒としての按手を著名な人から受けたとしても、その後のあなた自身の歩み、キリストの愛に基づく歩みが必須になります。私たちは、按手を必要以上に評価して、初歩の教えに留まるのではなく、固い食物を目指すべきなのです。

按手について 1

按手とは相手の頭に手を置く儀式です。旧約聖書での按手は以下の通りです。

ヤコブによる祝福の為の按手 (創世記 48:14)
贖罪の日に祭司がした務め (レビ記 16:21)
祭司の相続や任職の儀式 (民数記 8:10)
モーセがヨシュアに按手 (民数記 27:18-19、申命記 34:9)

レビ記 16:21 に書いてある祭司の務めは、贖罪の日にヤギに按手したもので、イスラエルの民の罪がヤギに移された事を象徴しています。新しい契約の下ではこの儀式はありません。
新約聖書での按手は以下の通りです。

癒しに関する按手 (ルカ 4:40、マルコ 16:18、使徒 28:8-9)
聖霊のバプテスマに関する按手 (使徒 8:17、使徒 19:6)
執事の任命に関する按手 (使徒 6:6)
バルナバとパウロに按手 (使徒 13:2〜3)
按手の忠告       (第一テモテ 5:22)
パウロのテモテへの按手 (第二テモテ 1:6)

リーダーを任命する為の按手は旧約時代と同じですが、新約聖書では、癒しの為の按手、聖霊のバプテスマの為の按手(I
I テモテ 1:6)などです。この聖句は、パウロがテモテに一つの「御霊の賜物」を与える為の按手、分与の為だったと誤解されていますが、そうではありません。

按手と御霊の賜物

按手によって、奉仕の働きの為の御霊の賜物が人から別の人に与えられるという事は、実際にはありません。按手した人から何かの祝福や影響を受ける事はあっても、それが御霊の賜物を分与する必須条件ではありません。ギリシャ語の「賜物(カリスマ)」という単語の直訳は「恵みの現れ」であり、神から与えられた恵み(聖霊)という意味と、教会における奉仕の働きがあります。一般に、御霊の賜物を「神から与えられた霊的な力」として誤解されている為、それを持っている人が按手によって、その賜物を「分与」する事が可能だと勘違いされています。しかし、I
I テモテ 1:6 の定冠詞の付いている単数の賜物(カリスマ)は、聖霊の事です。第一コリント12章でパウロが説明している「御霊の賜物(カリスマタ)複数」は、教会における様々な奉仕の仕事の事です。

按手のおかげで賜物による奉仕をする事になったというような証しは、「按手の効果」があるように見えるだけであって、実際には、それが単に「信仰が働くきっかけ」となっているだけです。信者の場合、信仰によって奉仕を始めるだけで、賜物による働きが可能です。ある意味、按手を受けたら「私は~ができる」と信じるならその通りになるのです。同様に、とにかく人を助ける事をしていれば、神が助けて下さると信じても、カリスマによる働きが可能になります。従って、按手を受けていなくても、例えば、癒しの働きができない訳ではありません。

新しい契約の下では、神の子として信仰によって歩めば、様々な形で神の栄光を現す事ができるのです。按手は霊的成長や奉仕の為の絶対的な儀式ではありません。ですから、按手にこだわる必要はないのです。その他、聖霊のバプテスマ、異言、その他の奉仕の働きとしての賜物(カリスマ)なども、按手が必須となっているわけではありません。誰かの按手に頼らずとも、自分で信仰の一歩を踏み出すなら、様々な事が起こって来ます。

リーダーの任命

ヨシュアはモーセを観察して、神と共に歩む事を学びました。その後、彼はモーセの後継者となりましたが、これは、新しい契約の下でも通用する考え方です。ヨシュアには、謙遜と情熱があったので、神はヨシュアを次のリーダーとして選んだのです。旧約聖書では神が選んだケースが殆どですが、神がリーダーを選ぶのは、「きまぐれな神の御心」という意味の「神の主権」ではありません。私たちは神の御心をそのように定義するのですが、神がなさる事は「きまぐれ」ではなく、ご自身の性質に基づいており、未来を見据えての判断であり、私たちの信仰と従順次第なのです。

次のリーダーにふさわしい人は、信仰と従順な心を持っています。リーダーにふさわしい人についての判断は、パウロがテモテに指示している通りです。その基準を元に、私たちは誰がリーダーとしてふさわしいかを判断します。ですから、使徒たちが教会をスタートさせた頃からは、教会に仕えるリーダーの任命は、使徒たちの按手を通してなされました。最終的には、人の判断だけでなく、主に聞いて判断するのがベストでしょう。

新しい契約の下でも、ヨシュアのように、信仰の模範者から学んでいる人が、次のリーダーになります。エリヤからエリシャもそうでした。テモテはパウロから学びました。しかし、弟子がイエスから学んだように、私たちの最高の信仰の模範者はイエスだけなのです。情熱と献身的な心と謙虚にイエスから学ぶ姿勢があれば、その人は神に導かれるでしょう。神はそのような人に多くの事を教えられます。このように考えると、按手によるリーダーの選定は、単に聖書学校を終えたからという事に基づくものではない事が分かります。

按手について 2に続きます。

神の臨在

コロサイ 1:27「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

これは、聖書中で最も重要な所の一つです。パウロはこの奥義を述べ伝える為に、教会で仕える者になったと言いました。パウロの書簡を読めば、キリストが私たちの中におられるという奥義を伝える為に、いかに彼が全てを捧げていたかが分かります。イエスが信者の中におられる事を示したパウロは、インマヌエルという名でキリストが呼ばれると書いてある預言が成就した事を宣言しているのです。しかし、今日のクリスチャンの多くは、キリストが彼らの中におられると認識はしていません。むしろ、「神の臨在」を求めて「渇いている」と言います。主が、「私が与える水を飲む者は誰でも、決して渇く事がありません」と言われたのにも関わらずです。

神の右に着座しているイエスは、聖霊を通して私たちの中にもおられます。イエスが共におられるという真理を悟っていれば、いかなる場面でも不安になったりする事はないでしょう。神が遠くに感じる事もありません。しかし、多くの人は神が遥か遠い、天国にいると思っているので、その距離を埋めようと必死になっています。主は、私たちから一瞬たりとも離れた事はありません。ですから、神の臨在を求めるという事は、ある意味、おかしな話ですが、そうした矛盾の原因の一つは、インマヌエルの預言が成就された事を信じていないからです。

人々が神の臨在を求めるのは、大抵の場合、何かを感じたいからです。それは、殆ど感情的なものです。五感で主を感じたいと望んでいるのは、信仰による歩みが分からないからです。しかし、普段から主と共に歩む人は、主からの水を常に飲んでいて、渇く事がないので、小さな霊的な体験ではもはや簡単に興奮しません。一方、肉の思いによって歩んでいる人は、霊的に渇いているので、神の臨在やその他の霊的体験を求めるようになるのです。そのような人は、神の臨在を少し感じただけでも、リアクションがオーバーになりがちで、霊的にアップダウンが激しく、安定していません。ちょうど、子供のテンションが急に高くなるのと似ています。

理想としては、五感によって神の臨在を認識しようとこだわらず、それでいて神の臨在が常に認識できるほど信仰の歩みをする事です。イエスが私たちの中におられ、私たちから一瞬でも離れた事がないというのは真理です。私たちがどんなに興奮状態になっていて、何かを感じていても、そうでなくても、主は私たちと共におられるのです。ですから、誰かが「主がそこにいます」と言っても、特別な反応をする必要はありません。何故なら、主の臨在は、常に私たちのものだからです。「神の臨在がここにあります」という、誰かの発言の一分前にも、主はあなたの中におられたのです。それとも、その発言があなたを興奮させて特別なリアクションを取るべきだと促しているのでしょうか?ある意味、私たちはそのような事を学習させられたのです。

主の臨在は、何かしら感じるような事、そのような体験もありますが、感覚にこだわる必要はありません。最初のうちは、そればかりを求めがちですが、私たちは五感によって歩まず、大人の考えで、信仰によって歩む事ができます。常に冷静でいる事はできるのです。しかしそれは、必要以上に感情を殺し、聖霊の流れを拒否するという事とも違います。御霊が特別に何かをしている時には、それに委ねる事も大事です。感情は、コントロールされているなら、表現を現す手段として、神から与えられた素晴らしいものです。しかし、感情的になると、感情が私たちを支配し、良い判断ができなくなるのもまた事実です。子供のように素直でいながら、感情的にならないように成長する事は可能です。真の喜びとは内から湧き上がるものであり、感情に支配される事とは違います。実際、聖書の言う喜びとは、霊的なものです。愛もまた、霊の域に属するものであり、感情はむしろ、後からついてくるものです。

イエスがあなたにとってインマヌエルでないのなら、あなたは信仰によって歩む事が出来ないでしょう。あなたは、あなたの祈りを主が聞いて下さっている事に確信があるでしょうか?神に関する事が全てミステリアスだと勘違いしているクリスチャンは、神の御心を理解していません。その理解のなさを埋めようとして、主の導きを必死に求めます。何事も主の導きなしでは動けないと考えながら、それが最高の生き方だと思っているのです。しかし、それは幼子の考えです。霊的な幼子は、常に聖霊の導きばかりを求めていて、主が手を引っ張らないと歩めないと思っています。

この種の問題を解決する一番良い方法は、イエスが私たちの中におられるという真理を知る事です。そうすれば、その満たされない思いを、五感を満足させるような方法にこだわらなくなります。クリスチャンにとって、霊的な事柄がミステリアスになっているのは、最も重要なミステリー(ギリシャ語で奥義の意味)を知らないからです。イエスが私たちの中におられるという奥義を知らないなら、全ての霊的な事柄が隠されている状態になってしまうのです。

使徒と預言者に従う?

Shepherding Movement 或いは Discipleship Movement(弟子訓練ムーブメント)とも呼ばれるカリスマ運動が70年代に広がりました。これは、使徒と預言者の権威が強調された教えです。人々は、使徒と預言者が教会の最高権力者のような立場だと勘違いし、カルト的な方向に流されてしまいました。実際、人生の重要な決定(結婚など)も、使徒や預言者が決めるものと教えていたのです。

「五役者(五職)」の教えも、未だに誤解されていますが、特に、リーダーの権威が間違って強調されている点が問題です。これらの役割に従事するリーダーは、神に特別に選ばれた霊的エリートではなく、ただ教会をまとめる役割をするだけであり、彼らに他の信者を支配するような権威が与えられているのではないのです。教会のかしらはイエスであり、土台となっている使徒と預言者は、その他の人たちを支える為に一番下にいて、一番使えている人たちなのです。

エペソ 2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」

「使徒たちや預言者たちという土台」とあるように、使徒や預言者は、教会の上の立場にいるのではありません。真の教会は、ローマ・カトリックのような、ピラミッドの形ではなく、むしろ逆ピラミッドです。現在でもこの種の考えが「五役者(五職)」の教えにあります。使徒と預言者の回復運動は、それ自体は悪くないのですが、彼らに対するリスペクトが必要以上になっている(肉的になっている)ところが難点です。リーダーに対する尊敬は重要ですが、彼らの権威は、信者に仕え、教える為のものであり、彼らをただ無意味に従わせる為のものではありません。

I コリント 4:15-16「たとえあなた方にキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなた方を生んだのです。ですから、あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい。」

パウロは最終的に、彼の愛する子供である、コリントのクリスチャンたちに、「あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい」と言っています。パウロは使徒の役割を担ったリーダーでしたが、神からの特別な権威が与えられたというだけで、ただ彼に従うようにと言っているのではありません。パウロは彼自身が人々の模範となった上で、彼に倣うようにと言ったのです。

I コリント 4:9-13「私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。私たちはキリストの為に愚かな者ですが、あなた方はキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなた方は強いのです。あなた方は尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しい言葉をかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。」

私たちが使徒たちをリスペクトする必要があるのは、彼らがこうした苦労をしていて良い模範を示しているならばの話です。自らを使徒と名乗る人々が、使徒としての模範を示していないのなら、私たちは、彼らの発言を吟味する必要があるでしょう。今のところ、信頼できる使徒や預言者の働きをしているリーダーは、それほど多くはいません。その主な理由は、彼らがまだ模範を示せる事ができるほどに、成長していないからです。しかし、前の時代から続いている、間違った教えの修正を加え、これらのリーダーたちが立ち上がる時代は、もう来ています。

聖書的な教会 3

5.聖霊の導き

クリスチャン生活の秘訣が、御霊によって歩むという真理にある事を知っている人は多いものです。しかし、御霊によって歩むという意味と、それがどのようにして可能になるかが鍵です。実は、聖霊のバプテスマはその第一歩となります。そこから、御霊と共に信仰の歩みを学ぶ必要があります。さて、聖霊の導きに関して言えば、それは私たちが聖書を読んで聖霊の導きを知る事が最も重要です。聖書にある真理をよく分からずに聖霊の導きを求めると、霊的体験主義になってしまい、聖書の解釈が個人の体験に偏ってしまいます。

クリスチャンの霊的歩みの半分は、御言葉が鍵を握っていると言えます。私たちが気づかないだけで、聖霊は聖書を読むように指示しているのです。イエスの言った事を思い起こさせ、御言葉にある全ての真理に導く事が、御霊の第一の目的だからです。また、聖霊の導きを吟味するには、聖書の真理の理解が不可欠です。個人的体験から学ぶような、感覚的なものだけでは、聖霊の声を完全に吟味する事は不可能です。御霊の導きをよく理解する為には、まずイエスの教えと福音の奥義を理解し、その上で御霊の語りかけ、夢、幻、その他の御霊が導かれる方法を学ぶべきです。

5.賛美と礼拝

私たちは、個人的な好みに偏りがちな選曲や、音楽のスタイルを超えた、霊的な事を知る必要があります。真の礼拝とは、霊とまことによる礼拝であり、集う信者が心を合わせてお互いの一致を保つ為に重要な役割があります。主に賛美と礼拝を通して、喜びにあふれる経験は、私たちを大いに励まします。賛美によって、皆が一致になると、神の働きがより大きなものとなるでしょう。

6.聖餐式、献金など

聖餐式はオプションではありません。聖餐式を軽んじていたコリントのクリスチャンは、病人が大勢いました。十字架の恵みを体験するには聖餐式は欠かせません。同様に、献金もオプションではなく、皆が喜んで与えるべきです。しかし、何も理解しないで、これらの事を儀式として行うなら、その恩恵を無駄にする事になります。聖餐式によって健康を保つ事が出来たのに、それを単なる食事として済ませていたコリントの信者は、パウロから注意されました。献金に関しても、強いられたり、喜びと信仰を持って行わないなら、神からの祝福を体験できなくなります。


まとめ

使徒たちがいなくなった後、初代教会がなくなり、ローマカトリックが代わって、クリスチャンを支配しました。当時のような、聖書的な教会は、少しずつ回復に向かっていると言えます。ペンテコステ運動からは大きな混乱もありますが、それはサタンも必死に、御霊の働きを止めようとしているからです。しかし、御霊とその力が回復される時、私たちは、かしらであるキリストに向かって成長する事になるでしょう。

聖書的な教会 2

2.全ての信者の奉仕

ローマ 12:6-8「私たちは、与えられた恵みに従って、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」

客席から聖職者のパフォーマンスを見ているような、傍観者の立場としてただ参加しているだけの信者は、現在の教会でも多いようです。ローマカトリックの影響を引きずっているのが、その理由の一つです。しかし、パウロは、皆がそれぞれの役割を持っているとしています。プロテスタント運動によっていわゆる「万人祭司」が教理として、形だけは回復されたのですが、まだ実行されていない部分は多いでしょう。全員参加型の集会は、これからもっと見直さなければならない課題だと思います。コリントの教会のクリスチャンは肉に属するキリストにある幼子でしたが、それでも賜物に欠けてはいませんでした。今日、御霊の賜物が十分に活用されていて機能している教会は、世界でもまだないくらいです。キリストの体としての教会はそれ程、真理からかけ離れているのです。

3.信徒の成長と弟子訓練

イエスの宣教命令の一つは弟子を作る事でした。未信者を信者するだけではなく、その後のフォローアップもあります。一部の献身した人や聖職者以外は観客席で見ているだけの「一般信徒」でも良いと考えている人が多いのは、しっかりした聖書の教えを受けていないからです。聖書の教えは信徒の成長の為であり、その成長は弟子訓練の為、そしてキリストに似た者となる為です。多くの教会ではこうした教えがない為に、クリスチャンはイエスの再臨を待つだけの受け身的な信仰しか持っていません。自ら伝道したり、他の人を積極的に助ける事は少なく、それどころか、自分の信仰を保つのに精一杯なのが現状の様です。

キリストの弟子として訓練される人は、霊的に成長します。そして今度は彼らが福音を伝えていく番になります。信者が集まるのは、お互いの成長を促す為であり、こうして訓練された人たちが世界に出て行って、より多くの人に福音が伝わるようになるのです。使徒たちの手紙の内容の殆どは、信者の成長の為に書かれてあります。それは単に御言葉の乳だけではなく、成長した大人の為の堅い食物についても書かれています。救われているからそれで良いという消極的な態度では、クリスチャン生活が勝利に満ちたもので、全ての霊的祝福を与えられている約束を、現実化できないでしょう。

4.聖霊のバプテスマ

多くのクリスチャンに力がないのは、聖霊のバプテスマをの体験がないからです。神の力は、私たちが神の子として歩む為、つまり、力による伝道をする為に必要です。イエスと使徒たちが行った伝道は、力による伝道でした。

I コリント 2:4-5「そして、私の言葉と私の宣教は、説得力のある知恵の言葉によるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなた方の信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなる為だったのです。」

パウロの言葉と宣教は、説得力のある知恵の言葉によってではなく、聖霊の力と現れでした。彼の宣教の言葉を聞いた人の信仰が、神の力によって支えられる為だったとパウロは言っています。神の力とは、ただ御言葉を語るだけではなく、神の力を伴います。聖霊のバプテスマを体験しないでも良いと考えるなら、聖書の言葉をあまり体験しないまま、歩んでしまうでしょう。癒しやその他の奇跡は、単に福音書に書かれる為に起きた事実だけでなく、今でも体験できる普遍的な神の恵みなのです。

正しい聖書主義とは、イエスが聖霊のバプテスマを授けになるお方だという事を信じ、その約束に忠実である事を意味します。御霊によって御言葉が生きたものとなる為にも、聖霊のバプテスマを受けて、御霊の力を受ける事が必要です。また、神の力を伴わない宣教なら、イエスがしたわざよりも大きなわざをする事ができません。

ヨハネ 14:12「まことに、まことに、あなた方に言います。私を信じる者は、私が行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。私が父の元に行くからです。」

イエスご自身も、ただ説教しただけでなく、癒し、悪霊追い出し、死人を蘇らす事や、その他の奇跡も起こしました。御国の福音を宣べ伝えていたパウロも御国の力をよく理解していたので、その御霊の力によって伝道していたのです。

I コリント 4:20「神の国は、言葉ではなく力にあるのです。」

神の力が伴わない宣教でも、ある所までは、ミニストリーで成功を収める事ができます。未信者を救いに導くだけなら、多くの奇跡を必要としません。実際、キリストの権威に対する信仰を持ち、それを行使するだけでも、多くの事をこなす事が可能だからです。しかし、聖霊のバプテスマを通して神の力を発揮するなら、より多くの奇跡にあって歩む事が可能になります。御言葉と御霊の力両方によって歩むなら、私たちはより大きな結果と祝福を体験する事になるでしょう。

使徒 8:14-16「エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所に遣わした。二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らの内の誰にも下っていなかったからであった。」

クリスチャンと聖霊のバプテスマ

ペテロとヨハネは新しく加わった信者に対して、聖霊を受けるように促しました。パウロも同じような事をしています。

使徒 19:2-6「彼らに「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いた事もありません」と答えた。「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」

聖書的な教会 3に続きます。

聖書的な教会 1

教会「Ekklesia」という語は、「呼ばれた者」(クリスチャン一人一人を指す)ですが、集合体の「呼ばれた者」なら、パウロが言うように、「キリストのからだ」となります。キリストに「呼ばれた」人々が集まると、「キリストのからだ」として、キリストの体の器官の働きをします。この場合、集まる人たちが「キリストのからだ=教会」であって、集まって出来た組織そのものや、教団がキリストのからだとしての本来の機能を果たしていないのなら、教会ではないのです。

クリスチャンがお互いを励ましたり、成長する為に共に集り、その為の活動をするのが、「キリストのからだ=教会」であって、単なる組織を持つ集団の場所に集うという考えではありません。組織や教団を発展させるのではなく、お互いを成長させる目的で集まります。組織は秩序の為に必要ですが、組織の為にクリスチャンが集まるのではなく、クリスチャンが正しい目的を持って集まると、キリストのからだとしての機能が始まるので、当然、そこには何らかの組織的なものがあります。

使徒たちの手紙と教会

福音書には、キリストのからだ(教会)についての話は、殆ど触れていません。宣教命令などを除けば、福音書は全て十字架の完了とイエスの復活で終わっています。話の続きは使徒言行録から知る事ができますが、そこで私たちは、教会がどのようにして生まれたかを知る事ができます。信者の成長に焦点を当てた信者の集会(教会)が、本来どのようにして機能するべきかについて詳しく書いてあるのは、使徒たちによる手紙を見れば分かります。使徒たちの手紙は、各教会に書いたものであり、その内容や目的も、各教会にいるクリスチャンたちへのアドバイスです。そういうわけで、聖書的な教会を考える場合、私たちは使徒たちの手紙を中心に見なければいけないのです。

1.祈りと聖書の学び

使徒 6:4「私たちは祈りと、御言葉の奉仕に専念します。」

教会が始まったばかりの時には、信者が何を、どのようにするべきかといった具体的なアドバイスすらありませんでした。それでも使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕の大切さだけは理解していたようです。聖書の学びと祈りが欠けている信者の集い(教会)は致命的ですが、それらがあったとしても、実際に信徒の成長が見られないなら、意味がありません。御言葉と祈りの重要な点は、私たちの信仰の成長にあるからです。

聖書の学びと言っても、旧約時代のような律法主義の考えから、聖書を学ぶ事ではありません。新しい契約の下での聖書の学びは、イエスの教えに従うという事であり、御霊によって御言葉が生かされるものです。同様に、祈りも儀式として行うものではありません。聖霊が豊かに降り注がれた恵みの下では、大胆な祈りに変わっています。律法の下では出来なかった御霊による祈りが、今は可能になっているのです。

異邦人信者に対して

最初の教会がスタートした時には、まだ異邦人のクリスチャンがいませんでした。しかし、すぐに救いの御言葉が異邦人たちへ伝えられるようになります。この時に、割礼の問題が起こりました。いわゆるエルサレム会議において、異邦人の教会では、以下の内容の事を最初のルールとしました。

使徒 15:29「すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避ける事です。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」

異邦人たちは、基本的に皆が偶像礼拝者でした。ですから、まず偶像礼拝に関わる事を止めさせる必要がありました。次に、不品行を止めさせる事を使徒たちは決めています。この二つが、当時の異邦人の特徴的な行動でした。注意したいのは、これらを禁じたのは、使徒たちが彼らにモーセの律法を守るようにする為ではありません。エルサレム会議は、異邦人にも割礼を受けるように教えるかどうかを議論する為に集まったものです。会議の結論は、異邦人にモーセの律法を守るように教える必要はないというものであり、信仰によって義と認められたという、キリストの福音によって生きる事を悟った使徒たちは、律法と恵みの違いを理解し始めていたのです。

使徒 15:21「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

この箇所は、「異邦人が、昔からモーセの律法を聞いていたから、律法を守るべきだ」とヤコブは言っているのではありません。彼らが昔からモーセの律法について聞かされるという、圧力を受けていたので、もうこれ以上、律法によって彼らを苦しめる必要はないとヤコブは言っているのです。今やその異邦人たちは、福音を聞いて救われて義となり、恵みの下にいるのなら、モーセの律法(文脈から割礼)は必要ないという事です。

使徒たちが早い段階から決めた事は、教会で異邦人に割礼を受けさせる事の禁止です。すなわち、それまでイスラエル人がモーセの律法を守り、それにより自己の義を得るという、自分たちにはできなかった律法主義を異邦人に強いる事を禁止にしたのです。イスラエル人が理解していたモーセの律法は、イエスを信じた者たちにとっては、廃棄になったのです。この場合、モーセの律法に問題があるという理由からの廃棄ではありません。モーセの律法はイエスによって成就され、それは神を愛する事と隣人を愛する事によって完成されたのです。

ローマ 13:10「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」

聖書的な教会 2に続きます。

教会の指導者に従う? 2

これまでの解説から、ヘブルの13章17節は「あなたがたの指導者たちにの言う事に説得されて(確信されて)、又、似るようにしなさい」という意味になります。

ヘブルの13章7節では、御言葉を聞いた人たちが、それを話してくれた指導者たちの信仰に倣うようにと言っています。17節はその後に続いて、同じ内容の事を繰り返しているのが分かると思います。一貫して同じ事を言っているのです。

結論として、へブル 13:7 は「教会の上に立つ人の権威に服従する」という事を言っているのではありません。「権威」という単語がそもそも出てこないですし、教会の指導者たちは教会という、キリストの体の上に立つ人たちでもありません。彼らはキリストの体の土台として、他の人々に仕える人たちであり、下から支えるリーダーであって、ピラミッドの頂点にいる存在ではありません。建物の土台は、上ではなく下に据えます。

リーダーの権威

II コリント 10:8「あなた方を倒す為にではなく、建てる為に主が私たちに与えて下さった権威について、私が多少誇り過ぎる事があっても、恥とはならないでしょう。」

パウロは、「あなた方を倒す為にではなく、建てる為」に主が与えて下さった権威だと言っています。「建てる」と訳されている単語は οἰκοδομή(oikodomē)であり、これは預言や異言の祈りによって「築き上げる、成長させる」の意味で使われている語です。次の聖書の箇所でも「使徒の権威」と「築き上げる」事について書いてあります。

II コリント 13:10「そういうわけで、離れていてこれらの事を書いているのは、私が行った時に、主が私に授けて下さった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになる為です。この権威が私に与えられたのは、建てる為であって、倒す為ではありません。」

ここでも、パウロが使徒として与えられた権威をは、他の人を「建てる為」だと書いています。

I テサロニケ 2:6「又、キリストの使徒たちとして権威を主張する事もできたのですが、私たちは、あなた方からも、他の人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

パウロは、人々から名誉を受ける為に、使徒としての権威を主張しませんでした。

使徒たちは、与えられた権威を用いて他の人の模範となって、導き、彼らに仕える働きがあります。「平信徒」が、問答無用に使徒たちに従い、彼らのビジョンを手伝って、何かを成し遂げようとするのではありません。教会は、集まったクリスチャンを指しているのであって、組織自体ではありません。集まる目的は、指導者が信者を教え、一人一人もまた、成長の為に助け合って、励まし合う為です。

何に従うのか?

教会内では「従う」必要が全くないのかと心配する人もいるでしょう。

I ペテロ 2:13-14「人が立てた全ての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、或いは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめる為に、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。」

「主のゆえに従いなさい」という事が鍵です。人によって設立された制度(ルール)でも、主のゆえに、つまり、主の教えに沿っている事を前提に従うべきです。あくまで人の制度やルールが「主の御心に沿う」なら問題はありません。ですから、真理の教えに反するルールである場合、「主のゆえに従う」事はできないのです。

模範

リーダーの資格は仕事のスキルよりも、信仰や愛に基づく良い模範になっているかどうかが重要です。品格はスキルよりも大事です。御霊の実が大事だと言われる通りです。よく指導者が言う、「上の人に従いなさい」は、彼らにとって便利なフレーズとして、しばしば乱用されて来ましたが、その結果、本来の教会が形成されずに、人間的な組織が出来上がってしまいました。

良い模範を示しているリーダーが、「従いなさい」と言って、個人的な何かを主張する目的で権威を利用する場合ですら、聖書的ではないのです。それならば、良い模範を示していない人が、その人の権威に従うようにと命じたのなら、どうなるでしょうか。誰も、「説得させられない」ばかりか、真理でもないので、違和感しか感じられないはずです。