取るに足りないしもべ

 ルカ 17:5「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増し加えて下さい。』」

 信仰さえあれば何でもできると弟子たちは悟ったに違いありません。そこで彼らは、イエスに信仰を増し加えて下さいと求めました。イエスも、信仰が鍵である事を弟子たちに言われています。

 マルコ 9:23「イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんな事でもできるのです。』」

 聖書に書かれている御言葉の約束を可能にするのは信仰です。ところが、信じる事が出来るように神に信仰を与えて下さるように求める事は的外れなのです。何故なら、信じる事は私たちがする事だからです。もう一度ルカの福音書17章に戻りましょう。

 ルカ 17:6-10「すると主は言われた。「もしあなた方に、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなた方に従います。あなた方の誰かの所に、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。お前はその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。しもべが命じられた事をしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。同じ様にあなた方も、自分に命じられた事を全て行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべき事をしただけです』と言いなさい。」

 信仰を増し加えて下さいと頼んだ弟子たちに対して、イエスはこの「取るに足りないしもべ」のたとえ話によって説明しました。このたとえ話からは幾つかの事が学べますが、ここでは信仰に焦点を置きたいと思います。このたとえ話を理解するには、からし種を用いた他のたとえ話も知っておく必要があります。イエスが言われた通り、からし種ほどの小さいものであっても、それが育って成長すれば良いのです。信仰のサイズは問題ではありません。パウロも、常に信者の信仰が成長する事を考えていました。

 次に知るべき事は、人は御言葉の真理とは無関係に、自分の信仰を成長させる事はできないという事です。私たちの信仰の成長の鍵を握っているのが御言葉という種であり、それを聞いて信じるから信仰が強くなるのです。ある意味、御言葉を聞いているのに信じる事ができないという事はあり得ないのです。神自身が語る言葉は虚しく帰ってくる事は本来ありえません。

 ローマ 10:8「では、何と言っていますか。「御言葉は、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉の事です。」

 私たちに必要なのは神によって信仰を増して下さる事ではなく、御言葉を聞いて、私たちに与えられている自由意思によって、神の約束を信じる決断をする事が必要なのです。信仰を邪魔するものは確かにあります。肉の思いによる考えは大きな障害です。しかし、、古い人がキリストと共に十字架で死んだという真理に基づき、肉の思いも一新される必要があります。

 私たちが信じる事が難しいと感じるのは、私たちが疑いを持つからです。しかし、疑わずに心で信じるのなら、私たちは多くの祝福を体験できるでしょう。ポイントは、疑いがなくなるまで、御言葉に没頭し、肉の思いを取り除く事です。一度だけ御言葉を読んで信じる事ができる人はいません。又、頭での理解と心で信じる事は別です。ですから、理解したから信じているという事ではなく、種(御言葉)をきちんと心に植えるという作業が必要なのです。御言葉は理解を超えて、信仰と結び付けられる必要があります。

 信じるのは私たちです。神が私たちに信じる力を与えて、私たちが信じられるようになるのなら、私たちは信仰を与えて下さいと求めなければいけません。しかし、救いの信仰ですら、私たちの決断次第なのです。神は様々な方法で、私たちを信仰の道に導きますが、信仰そのものを与える事はしません。神は、ご自分の御子、イエス・キリストを世に送られました。イエスを通して、人々が神を信じるようになる為です。ただ信仰を与える事ができたのなら、最初からイエスを送る事はなかったでしょう。

 信仰に始まったクリスチャンは信仰から信仰へと成長して行くのが聖書の教えです。私たちが信仰によって歩み続けるのをやめるなら、次の成長のステップはありません。敬虔な生き方を訓練によって学ばずに、ただ信仰を増し加えて下さいというしもべは、イエスに言わせれば、「取るに足りない」のです。何故なら、自ら成長して、大人になって考える事をせず、ただ言われた事だけを行うしもべだからです。

 「信仰を増し加えて下さい」と願うのは、ある意味、ずる賢いのです。成長という過程を通らずに、すぐにキリストの満ち満ちた身丈に達する事ができるとしたら、どんなに楽であった事でしょう。しかし、神がそれをする事ができるのであれば、最初から全ての人類が信仰に入るようにすれば良かった事にもなります。人の自由意志に委ねずに、全てを御心のままにすれば良かったはずです。ところが、神は人の自由意志を尊重し、私たちが信仰を働かせる時に、喜ばれるのです。

 イエスが厳しく弟子たちを叱ったケースは、全て彼らの信仰に関わる事だったのを思い出して下さい。主は、信仰に関して妥協なさいません。信じるのは私たちがする事であって、神はそれを強く望んでおられるのです。神の御業によって誰かの信仰が増し加わるのなら、その人はもはやロボットです。信じるようにさせられている、自由意思を失ったロボットです。神が私たちの信仰を増し加えて下さるのではなく、私たちが成長という過程を通して、信じるようになり、信仰が強くなって行くのです。ですから、霊的幼子からすぐに大人にして下さるように、神に信仰を増す加えて下さるように願う事は、神の御心に反するのです。

 神が愛の方である以上、神は私たちをロボット扱いはしません。私たちに自由意志が与えられているのは神が私たちを愛しておられるからです。神は、私たちに与えられた自由意志を使って、御言葉を信じる事を望んでおられます。今日、私たちにとって大きな壁となって私たちの信仰の歩みを妨げるものがあります。それは様々な間違った教えがもたらす疑いです。私たちは多くの非聖書的な考えを一新する必要があります。何故なら、信仰はあらゆる解決の鍵となっているからです。