ある人は、宗教は必ずしも悪いものではないと言うかもしれません。何かしら良いものを教えていると言います。宗教という名の下で良い事もなされたと主張するかもしれません。ヤコブもそのような事を言っていたとして、宗教の価値を認めようとする考えもあるようです。しかし、ヤコブは「宗教を良い」としていたわけではありません。
宗教の定義が違うと論点がまとまりませんが、一般的な宗教に対する理解は、それをむしろ正確に捉えています。人々が殆ど一致して見えているのは束縛です。それが理由で、宗教に熱心な事に対して、多くの人は良い印象を持っていません。スポーツや勉強に没頭する事を好ましいと思う反面、宗教への没頭は危険と思われています。その背景には、カルトの問題があったからというのもあるでしょう。しかし、カルトとは縁のない宗教であったとしても、多くの人は好意的に捉えてはいません。何故なら、多くの人が見るのは、宗教がもたらす束縛であって、自由ではないからです。以下に、宗教の特徴を挙げてみました。
1.宗教は自己の義に基づいている
宗教の根本的な信念は自分の努力などによる、自己の義を強調している所です。サタンは、善悪の知識の木から食べれば「神のようになる」とアダムとエバを誘惑し、彼らの意識が神から離れて自分を中心に物事を考えるように仕向けました。私たちはどうしてアダムとエバはそんなにも愚かだったかと思うのですが、私たちが自分自身に目を向けて、自ら平安と喜びを見いだそうとするなら、彼らと同じ過ちをするのです。宗教は自己を築き上げ、自己を神としてしまう嘘なのです。
2.宗教は神を歪める
宗教は神に対して嘘を言うので、神の良いイメージを破壊します。
- 神はあなたに対して怒っている
- あなたのする事に点数を付けている
- あなたを拒否するかもしれない
- 神の怒りを鎮める為に、あなたは A、B、C をしなければならない
- あなたが忠実で良い行いをすれば、神はあなたを祝福する
3.宗教は恵みを退ける
宗教は神への道を示しますが、その道は実は反対に向かっているのです。 自己の義を求める高ぶりの道は、決して恵みの王座に至る事はありません。自己の努力による義の獲得はいつも恵みを退ける行為なのです。
ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」
4.宗教は偶像礼拝
バアル、モレク、或いは、世的な偶像よりも、大きな偶像は自分自身です。この偶像は何度も主張します。宗教は自己中心的な思いで働き、サタンのような高ぶりを持っています。他の人を思わずに自分の事ばかりを気にかけています。
救い、癒し、赦し、聖化、義化、などは全て神の恵みによって与えられるものですが、宗教は次のような嘘を言います。
- 救い(救われるにふさわしい事を証明しなければならない)
- 癒し(癒やされるのにふさわしく、神の御心に叶う場合のみ)
- 赦し(罪の告白を続ける事が絶対条件)
- 聖化(一生を掛けても得る事はないが求めなければならない)
- 義化(律法を守る努力によって獲得できる)
5.宗教は聖書を曲解する
宗教は偽善なので、その視点でもって教えられて来たものは全て修正する必要があります。特に悔い改め、信仰、教会、聖化、祈りの意味を見直す必要があります。イエスに従う事は重荷にならないのですが、宗教はそれを難しいものにします。福音は良い知らせですが、宗教はそれを悪い知らせにします。宗教の究極的な目的は、イエスの教えに逆らい、神の恵みや真理を無にして救いの道を絶ってしまう事なのです。
6.宗教は動機が不純
動機が正しい場合、良い行いは本当に良い事なのです。例えば、ある人が、一日に3時間祈る事や聖書を読む事などを決め、それらを行う事によって神から何か頂こうと考えるなら、それは宗教になります。一方で、3時間の祈りや聖書の学びを、自分の成長の為に行うのなら、それは個人的な霊的成長に関する事で、悪い事ではありません。ただし、この個人的な事柄を人に押し付けるなら、それも宗教になります。何故なら、個人的な事柄に関しては、誰かが決める事はできないからです。各自が信仰に応じて心で決めるようにするのが新約聖書の教えだからです。