聖霊についての誤解

 聖霊についての様々な誤解は、イエスの十字架の御業と深く関係しています。聖霊の働きと罪について間違って教えられているものを幾つかピックアップしました。

1: 聖霊は人の犯した罪をチェックしている

 多くのクリスチャンは、聖霊は罪を犯した人を捕まえる警察官のように考えています。しかし、イエスは聖霊を慰め主と呼んでいます。モーセの律法の古い契約の視点から考えるのではなく、新しい契約の真理から考える必要があります。新しい契約の下においては、罪についての取り扱い方は大きく変わりました。

 へブル 10:17「『私は、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない』と言われるからです。」

 罪がこの世に全く存在していない、或いは、全く存在していなかったという事ではありません。罪自体は昔から今でも存在しており、相変わらず悪であり、それは熟すると死になります。ただし、過去、現在、そして未来の全ての罪はイエスの十字架によって赦されたというのが真理です。厳密に言えば、イエスは十字架の御業を完成する前でも人々の罪を赦し、誰も罪に定めなかったのですが、それらの人々の罪の為にも、イエスが十字架上で代価を払う事になっていたからです。

 イエスが指摘しなかった罪を、聖霊が指摘する事はありません。イエスの十字架は、罪や病気を含む、あらゆる呪いからの解放の象徴なので、聖霊が誰かの罪を指摘するような事はありません。聖霊はむしろ、人の罪が赦されているという真理、神の恵みに導きます。聖霊が人を神の恵みに導かれると、人は自然に悔い改める(考えを変える)ようになります。

 コロサイ人 2:13-14「背きの内にあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなた方を、神はキリストと共に生かして下さいました。私たちの全ての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いて下さいました。 」

2: 聖霊はクリスチャンが犯した罪を認めさせる

 罪を赦す神が罪を指摘する事はありません。これも、律法と恵みの混同から来る考え方です。罪を指摘するのはモーセの律法ですが、聖霊は私たちに義を認めさせるのです。ですから、律法は私たちの罪を認めさせますが、聖霊は信者に対してキリストの義を思い出させるのです。

 ヨハネの福音書 16:8-10「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。義についてとは、私が父の元に行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。」

 真理によると人の罪は既に赦されているのです。だからと言って、罪を犯して良いという事ではありません。罪から解放されて義人となっているクリスチャンは、義人として歩む(御霊によって歩む)事ができるという真理に目を向けるべきなのです。そうすれば、最終的に罪を犯さなくなります。世に対しては(未信者に対しては)、聖霊はイエスを信じていないという罪(新約による唯一の罪)を認めさせますが、クリスチャンに対しては義を認めさせるのです。

 クリスチャンが罪を犯しているケースでは、聖霊は十字架の赦しに導きますが、クリスチャンが自分の罪を認めるのは、自身の清い良心によってです。信者が気づいていないケースでも、聖霊が直接私たちの罪を指摘し、罪を認めさせるというよりも、真理の御言葉によって何が正しい道かを私たちに理解させます。間接的に私たちが犯した罪に対してどうすれば良いかを教えて下さいます。

3: 聖霊は罪の告白に導く

 罪の告白という概念はローマ・カトリックによる宗教的な教えであって聖書的ではありません。聖霊は罪の告白に導くのではなく、キリストが主である事を告白させる為に導くのです。

 第一コリント 12:3「ですから、あなた方に次の事を教えておきます。神の御霊によって語る者は誰も『イエスは、呪われよ』と言う事はなく、また、聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です』と言う事はできません。」

第一ヨハネの手紙 1:9 は、しばしば「罪の告白」の聖句として捉えられていますが、この箇所の動詞は「犯した罪を告白する」という意味ではありません。そもそも私たちは、既に赦されている罪に対して何かをするという事はありません。同じ罪を再び犯さないように、反省する事は悪いものではないのですが、罪の告白をすれば、その時に私たちの罪が赦されるのではなく、イエスの十字架の贖いの血は、既に私たちの罪を赦しを宣言しているのです。

 これは、過去に犯した罪だけが赦されているという限定されたものでもなく、現在の罪も未来の罪も、そして全ての罪も含まれます。告白すれば神との関係が正されるという考えも聖書には書いてありません。私たちはイエスを信じて、義と認められ、神の子になっています。例え罪を犯しても、主の十字架の赦しを信じる事によって神の御坐に大胆に進む事ができるのです。私たちのするべき告白は、イエスが罪を取り除いて下さったという十字架の力の宣言です。

 聖霊は私たちをイエスから目をそらさないように導きます。クリスチャンが罪を犯している場合でも、まず既に罪から赦されているという真理に導き、それによって悔い改める(考えを変える)ように促して下さるのです。既に罪が赦された事を知っているクリスチャンだからこそ、彼らが罪を犯しているのなら、罪から悔い改める(考えを変える)のが神の子として当然であるという悟りを、聖霊は与えてくれます。私たちは赦される為に悔い改めるのではなく、赦されたという恵みゆえに悔い改めるのです。

4: 聖霊は去っていく

 旧約時代の特定の人たちには、神の霊が臨み、去っていく事がありました。預言者、祭司、そして王には油が注がれて、聖霊がその人たちに臨みました。これらの人たちは一時的に聖霊を受けただけなので、罪を犯した時には、聖霊が去っていく事もありました。ところが、新しい契約の下では、全ての信者の上に聖霊が豊かに注がれましたす。しかも、聖霊は去っていく事はもうありません。ダビデさえも理解出来なかったこの素晴らしい約束はキリストの十字架の恵みなのです。

 詩篇 51:11「私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を 私から取り去らないで下さい。」

 ダビデ王は地上で最も偉大な人間の王でした。詩篇にあるキリストについての彼の預言的な歌は、多くの啓示を神から与えられたからでした。しかし、そのダビデでも、聖霊がキリストを信じる者全てに無限に降り注がれるような事が後に起こる事は知らなかったのです。

バランス

 神の恵みを正しく理解していれば、それが乱用される事はありません。どちらかと言えば、神の恵みは軽んじられる傾向が強いので、それを教える事を優先すべきでしょう。パウロも、神の慈愛は軽んじられるべきではないと言っています。

 ローマ 2:4「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導く事も知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

 神の愛は、人を悔い改め(考えを変える事)に導く力があります。恵みの強調は良いのです。ただし、恵みを正しく捉えた教えであるべきです。ハイパー・グレイスなどのような教えは、恵みを極端に教えたものであり、実は真理ではありません。