肉的な思考そのものは単なる考え方なので、新生したクリスチャンでも、それは思考の中に存在しています。実際、新しい霊として生まれた変わったクリスチャンでも、肉の思考パターンのまま、古い人として生きている人も多くいます。それは、ある種の矛盾した存在として生きているようなものです。
新しい人でありながら、古い人としても歩めるとはいえ、これらの二つの矛盾するアイデンティティーが存在しているという事ではありません。クリスチャンが葛藤するのは、肉の思考と御霊の思考という、二つの違う考え方がぶつかり合っている為です。クリスチャンは新しいアイデンティティーとして生きて行く事ができます。しかし、私たちが御霊の思考で歩むという選択をし、肉の思考を一新させなければなりません。この二つの考え方がぶつかると葛藤が生じ、本来のクリスチャンとしては歩めなくなります。
ローマ 8:5-7「肉に従う者は肉に属する事を考えますが、御霊に従う者は御霊に属する事を考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従う事ができないのです。」
私たちがクリスチャンになる前は、肉の思いで歩んでいました。その考え方自体は、新生した後でも、記憶として私たちの中に存在しています。それを思い出して、その考えのまま歩むのなら、古い人として再び歩む事になります。しかし、新しくされた私たちは、新しい歩み方をしなければなりません。私たちの霊の中に、御霊の思い、キリストの考え方がありますが、体にある古い記憶はそれに反して考えようとします。ですから、古い考え方をやめ、新しい考え方に変える必要があるのです。これを思考の一新とパウロは呼びました。
思考の一新 2に続きます。