罪から離れる秘訣

   イエスを受け入れたクリスチャンは全て義人なのですが、このシンプルな奥義を理解していない場合は、信者でも罪意識を抱えてしまう事があります。罪意識を持って歩めば、勝利のクリスチャン生活を送る事ができません。多くの場合、彼らは宗教的な努力による解決を頼みにしている為、その束縛の中で疲れ切っています。

  ローマ 6:17-18「神に感謝します。あなた方は、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」

 「罪から解放されて」という部分は、「罪の奴隷として解放された」という意味です。信者は、罪を犯してしまう呪いから解放されています。この2つの節に出てくる罪は、定冠詞が前にあり、単数形になっています。すなわち、限定された一つの罪からの解放を意味しています。罪には多くのものがありますが、17節と18節では一つの罪についてパウロは書いているのです。それは、罪の性質と呼ばれる、アダムの違反の事です。それが呪いの原点であり、これを取り除かずには、いつまでたっても人は罪の奴隷から解放される事はないのです。

 イエスの十字架での犠牲は、私たちに救いをもたらす為でした。救いが私たちのものになるのも、イエスの十字架で流された血のおかげです。

 へブル 9:13-14「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体を清いものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心を清めて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする事でしょうか。」

 14節の「死んだ行いから離れさせ」と書いてある通りに、クリスチャンは罪の奴隷や律法に縛られているのではなく、義の奴隷として「生ける神に仕える者」となっているのです。義の奴隷として自分を意識しているクリスチャンよりも、罪を意識しているクリスチャンが意外にも多いのは、彼らが罪から解放されている事について良く分からないからです。残念ながら多くのクリスチャンは、「赦された罪人」などの表現を使う事によって、常に罪意識を持ってしまっているからです。赦されているのに、罪人という事があるでしょうか。キリストにある者は、誰も罪に定められる事はなく、義と認められているというのがパウロの教えです。

 ローマ 8:33「誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。」

 クリスチャン生活が、ただ罪を犯さないように必死に頑張るものだとして教えられるなら、信者は宗教的になり、肉の努力によって何かを試みるようになります。そうした努力からは、何の結果も出ないばかりか、神の魂の安息もありません。  一般的なクリスチャンのケースだと、犯した罪を意識する度に自然に神から遠ざかってしまいます。そうなると、ますます自己嫌悪に陥り、聖書も読まなくなり、祈りもやめてしまいます。教会にも行かなくなってしまうでしょう。このような悪循環からの解放は、真理を知る事によって自由を獲得するしかありません。何を知れば良いかと言えば、私たちの罪が赦されており、私たちが神の前に義として認められているという真理です。

 罪を犯してしまっても、私たちは、あらゆる罪から既に赦されているという神の約束を思い出して、宣言する必要があります。義の為に生きるようになった信者は、真理の言葉に考えを変えて、正しい生き方を歩めるようになっています。本当に救われているクリスチャンというのは、決して罪の中に留まり続ける事はできません。その一つの証拠に、信者が罪を犯してしまうと、良心の咎めをひどく感じるのです。良心が働いているからこそ、罪を犯したくないと真剣に思うのがクリスチャンです。真のクリスチャンはイエスの十字架の赦しの力に会う度に、その憐れみと愛を経験できます。「罪を犯しても、赦されているから大丈夫」という気持ちにはなりません。そして、間違った考えから悔い改める(考えを変える)必要がない、などと考えるクリスチャンは存在しないのです。

 ローマ 2:4「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導く事も知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

 神の愛は、人を悔い改め(考えを変える)に導きます。例え少し時間が掛かかるケースがあるにしても、考えを変えて正しい道を歩んで行けば、自然と罪から離れてしまうのです。これは、新しく生まれ変わった霊がイエスを信じる人の内に宿っている為に可能になっているのです。私たちが本来の私たちとして歩み始める時、すなわち、神の子として目覚めて歩み始める時、私たちはこの地上を治める事、神の国をこの地上にもたらす事に忙しくなり、罪を犯すような事に興味がなくなって行きます。この奥義はとても深いものです。

 信者とは違って、未信者の場合には、罪を犯せば犯すほど抜けられなくなります。依存症のように罪を犯し続け、さらに大きな罪を犯してしまい、そして最後には死に至ります。彼らはイエスを信じていないので、罪の奴隷として歩んでいるので、このような生き方にしかならないのです。

 クリスチャンの場合は、例え罪を犯してたとしても、イエスの十字架に帰ってくる度に再び力を得る事ができます。罪の増し加わる所には恵みも満ち溢れるのですから、考えを変えて恵みを受け取るなら、罪の奴隷として歩み続けるという悪循環がありません。イエスはその悪循環を打ち壊されたのです。失敗の度にイエスの十字架に立ち帰るのなら、ある意味、罪を犯すほど、愛を経験する事さえクリスチャンにとって可能なのです。

 こうして主の愛を何度も経験すると、ついには、真剣に御霊によって歩む事を学び始めます。そこに至るまでは、何度も罪を犯してしまい、自己嫌悪や不安に陥る事もあるでしょう。しかし、クリスチャンが、キリストの贖いによって、罪が取り除かれているという真理を知り、考えを変えるなら、義の為に生きる事に目覚め始めるでしょう。

 ガラテヤ 5:16-17「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たす事は決してありません。肉が望む事は御霊に逆らい、御霊が望む事は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなた方は願っている事ができなくなります。」

 17節を見て下さい。「願っている事ができない」の表現は、ローマ書の7章でパウロが書いたものと同じです。もしかすると、パウロもまだ成長の途中にいた時は、その葛藤を経験た事でしょう。しかし、彼は解決方法も知っていました。パウロは、御霊によって歩むなら、肉の欲を満足させないと言っています。罪から離れる秘訣は、御霊によって歩む(霊によって歩む)という事です。肉の思いによって歩むなら私たちは必ず罪を犯します。しかし、御霊の思い(霊的な考え方)で歩むなら命と平安を得るのです。

 神はクリスチャンが成長の道を進む事を望んでおられます。私たちは、御国の力をこの地上で体験し、義人として歩む事ができます。それは、天国に行った後の事ではありません。私たちの内に住む聖霊の力と御言葉は、罪への誘惑を吹き飛ばしてしまう力があります。ただし、御霊によって歩む、御言葉によって歩むとはどういう事なのかを完全に理解しなければなりません。霊的成長を目指して歩む事はパウロの最も重要な教えの一つになっています。