神の信仰 2

 マルコによる福音書 11:23「まことに、あなた方に言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。」

 文脈から判断すると、イエスがいちじくの木にした事を通して、弟子たちに信仰について教えているのが分かると思います。何故なら、「山に向かって動いて海に入れ」という言葉を信じるなら、その通りになると言って、ご自身の行った奇跡を「山を動かす信仰」に結び付けたからです。つまり、信仰というのは、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる事だと言われたのです。

 アメリカの聖書学者ジョセフ・アディソン・アレクサンダーも、この箇所はイエスが弟子に信仰について教えているものだとしています。マルコの11章22節は、ギリシャ語の文法からすると、「神の信仰」となるので、そのような信仰を持つ事の大切さを教えていると言っています。

 これに批判する人たちは、「神ご自身が信仰を持っているはずはない」として信仰の対象となるのは神であって、「神に対する信仰」とするのが正しいという立場を主張しました。信仰の意味を「誰かに頼る」にすべきだとしたのです。そうして、「神が信仰を持つ」という意味での「神の信仰」ではなく、「私たちが神に対して信仰を持つ」という解釈を結論としました。信仰は私たちが持つ「確信」であるというのは、多くの人が認めているもので、Thayer's Greek Lexicon でも似たような表現でそれを信仰の第一の定義としています。信仰の定義はそれで確立しているというのは基本でしょう。しかし、ギリシャ語の文法から「神の」信仰という所有を表しているのは簡単に無視できません。この部分をどう捉えるかは重要です。

 文法に忠実に解釈するならば、次の三つの解釈の可能性があります。

  1. God's faith (神の信仰)
  2. The kind of trust that comes from God (神から来る信仰)
  3. God's faithfulness (神の誠実)
 これらの事に関して別の意見があったとしても、「神の」という部分は見逃せません。明らかに信仰という語の所有が神に属しているからです。正しい理解は、イエスが私たちに示した信仰の歩みにあります。イエスご自身、父なる神に信頼しておられました。それは、福音書の多くの個所から読み取れます。イエスが示された御父との信頼関係は、私たちが模範にするべきものである事は明らかでしょう。「神の信仰」はイエスの持っていた信仰、つまり、イエスが私たちに模範として示した信仰として捉えれば良いのです。

 模範にしなさいという意味でイエスが自分の信仰を彼らに見せたのなら、マルコ 11:22-23 がより分かりやすくなると思います。イエスが自らの言葉によっていちじくの木が枯れたように、そのような信仰を弟子たちも持つなら、山をも動かす事ができると教えたのです。つまり、命じた言葉を疑わずに信じるという信仰です。神に信頼を置くという意味の信仰に加え、命じた言葉通りになるという信仰も、イエスは弟子たちに見せられたのです。

 マタイによる福音書 21:21「イエスは答えられた。「まことに、あなた方に言います。もし、あなた方が信じて疑わないなら、いちじくの木に起こった事を起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、その通りになります。」

 同じ内容がマタイの21章にも書かれてあります。ここで明らかなように、いちじくの木でイエスが見せた奇跡と、山に命じて海に入れという宣言の言葉による信仰は、同等だとイエスは教えています。

 マルコによる福音書 11:23「まことに、あなた方に言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。」

 「自分の言った通り」の信仰について、イエスは教えておられました。私たちが知らなければならないのは、「神に信頼を置く」という事を信仰の土台とし、「神の信仰」とは、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる事だと、実践を通して説明しておられたのです。神に信頼を置くとは、神と神の御言葉に信頼を置くという事です。この事を土台とするなら、自分の言った通りになると信じて宣言する時に、神の信仰を表す事ができるのです。

 ルカによる福音書 17:6「すると主は言われた。「もしあなた方に、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなた方に従います。」

 この個所も少し似ています。信仰によって宣言される言葉は奇跡を起こすという点です。「心に信じて口で告白する」というのが救いの信仰なのですから、信じて発する言葉には力があるという解釈は聖書的なのです。

 へブル 4:2「というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いた御言葉が益となりませんでした。御言葉が、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」

 ある学者たちは The New International Dictionary of New Testament Theology において、命令によって山を動かしたり、いちじくの木が根こそぎ海の中に植わるようにするという信仰を「力ある言葉」という表現で説明し、マルコ11章24節のイエスの教えは、祈りと「力ある言葉」の関係を示すものだとしています。神への信仰を土台にした祈り(願い、宣言)が、命令(力ある言葉)に先立つ事を意味していて、祈りと力ある言葉の両方を信仰だというのです。

それでは、「神の信仰」という表現が「神が所有する信仰」で良いのでしょうか?結論から言えば、イエスが見せた信仰は「神が持つ信仰」であるとしても構わないのです。イエスご自身が、自分の命じた言葉を信じた事によって奇跡が起こるというのをいちじくの木の件で弟子たちに教えたのですから、「神の信仰」という訳自体は正しいのです。

 主が命じた言葉によって物事が存在したのなら、主がそうお命じになられた時に、ご自分の命じた言葉の通りになると信じたという事になります。この場合、クリスチャン一般が定義している「望みの信仰」ではなく、必ずそうなると確信している、見えてはいないけれども確信しているという信仰です。残念ながら、クリスチャン一般の信仰は、単なる望みでしかありません。

 「主は何も信じる必要がない。何故ならそうなると分かっているから」という反論もあるでしょう。ところが、信仰とはまさに事が起こる前からどうなるかを分かっている、理解している、確信している、目に見えない事柄を最初から見ている、という事なのです。どうなるか分からないのを望むという「望みの信仰」ではないのです。

まとめ

 信仰はあくまでも人が神と御言葉に対して、信頼を置くものです。その信頼を基礎として、イエスがいちじくの木に命じると、枯れてしまったのです。その奇跡を通して、神の信仰を学ぶようにと、イエスはマルコ 11:22-24 で教えられたのです。「神の信仰を持ちなさい」という意味は、イエスが実践して見せたような信仰を模範としなさいという事です。主に信頼して主の御言葉に頼る人だけが、そのような信仰を発揮できます。神に「神の信仰」を祈りによって求めて、それを手に入れ、それから信じる事ができるようになる、などのようなものではないのです。