教会の定義 1

 教会という語は、コイネーギリシャ語(当時のギリシャ語)によると、「ekklesia = エクレシア」で表されています。その意味は「外へ呼び出された者」が第一の定義です。「ek = 外へ」という語と「klesia = 呼ばれた」(kaleo/klesis/kletos から)の語から成り立っています。

時代背景

 このギリシャ語は、アレキサンドリア大王が周辺地域を支配していた事とも関係があります。彼は近辺の国々を植民地化していたのですが、そうした地域では、ある特定の人たちが政治的な役割を果たしていました。彼らは、自らをエクレシアと名乗っていました。その言葉をイエスは使い、使徒たちもまた、神の国において政治的な役割を持つ者だとしたのです。従って、使徒たちが考えていた教会(エクレシア)は、政治的な役割を果たす事も含んでいたのです。

 さて、新約聖書中では3回「集会」という意味で使われていますが、「外へ呼び出された者」という本来の意味を踏まえて見てみましょう。

 使徒 19:32「人々は、それぞれ違った事を叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何の為に集まったのかさえ知らなかった。」

 この箇所の「集会」は、パウロの伝道によって収入を失っていたデメテリオという銀細工人が、その職人たちや同業の者たちを集めたものでした。ここでは、「エクレシア」という語がパウロの福音伝道に反対していた「未信者の集会」に対して使用されています。いわば、「反キリストの集会」です。つまり、コイネーギリシャ語の「エクレシア」は、本来、特に宗教的な意味を含んだ語ではなかったのです。コイネーギリシャ語の定義によれば、「呼び出されて集まった人々」は宗教的な目的以外のケースでも「エクレシア」の語で表現可能でした。「エクレシア」は、元々「クリスチャンの集会」という宗教用語ではなく、どんな集会に対しても用いられる一般的な言葉だったのですが、それをイエスが用いた事により、イエスによって呼び出された者となったのです。

 注意したいのは、集会そのものがエクレシアではなく「呼ばれた複数の人々」がエクレシアです。焦点は「呼ばれた人々」にあって、呼ばれた人々の「集会そのもの」ではありません。何かの「集会」は人々によって構成されているので、集会の存在は人々に依存しています。従って、教団や組織がその中にいる各信者を中心とした活動をしていないのなら、コイネーギリシャ語の意味する「エクレシア」ではありません。

 第一コリント 12:27「あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。」

 コロサイ人 1:18「また、御子はその体である教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、全ての事において第一の者となられました。 」

 エクレシア(教会)は「キリストの体」だとパウロは言っています。これは、全てのクリスチャン、或いは、クリスチャンの集まりの事を指しています。全て外へ呼び出された人たち(この場合はキリストによって呼び出された人々)は一つのキリストの体を構成します。体は一つです。これは統一教会主義ではありません。全てキリストによって外へ呼び出された人たち(信者)は、「一つの体」としてみなされるのです。

 第一コリント人 12:12「ちょうど、体が一つでも、多くの部分があり、体の部分が多くても、一つの体であるように、キリストもそれと同様です。」

 ガラテヤ 3:26-28「あなた方はみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子供です。キリストにつくバプテスマを受けたあなた方はみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなた方はみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」

 キリストの体を教会(エクレシア)として、それが一つであるなら、全てのクリスチャンは、キリストの体であり一つなのです。残念ながら、現在の教派ごとに分かれた教会で教えられた信者の間には、こうした本当の一致(信仰の一致)の考え方がありません。キリストの体は一つなのに、お互いの間に教派という壁を作ってしまい、主にある兄弟姉妹に対して敵対するような環境を作ってしまいました。その原因は、ローマカトリックの影響を受けた事にも関係しています。つまり、宗教改革と言っても、聖書の教えに完全に沿ったものに戻ったのではなく、幾らかの教えを正しただけで、人間的な組織の継承があったという事です。それにより、本来のエクレシアではなく、特定の人や集団をかしらとしてしまったものが教会と呼ばれるようになったのです。 

 そこで学ぶクリスチャンも、意識が集団や教団の発展に向いてしまい、自分の成長に目を向けるよりも、教団の為に力を入れる傾向があります。その為、教団の活動をサポートするように信者に十分の一の献金が強制的になっているのもありがちです。そこでは、人間的に作った宗教組織のビジョンを達成させる事があまりにも強調されすぎて、信者の成長をおろそかにしているのが普通になりました。

 イエスに呼び出された者(エクレシア)が集まってできたもの、つまり、私たち一人一人はお互いの為に存在しているという意識から集会を見るのが、正しい見方です。これが新約聖書によるエクレシアです。信者(キリストに呼ばれた者=エクレシア)の集会は、そこにいる全ての人の成長の為に存在するもので、集会の為に信者が何かをするのではありません。何かの「集会、聖会、カンファレンス」を成功させる為に、皆が奉仕するのではなく、そうした集まりの機会を利用して信者の成長を促すのです。

 また、集会のリーダーだけが主役ではありません。皆がそれぞれ役割を持っています。信徒の成長を促して奉仕するのが使徒、預言者、伝道者、牧師、教師等のリーダーたちなのですが、「エクレシア」のかしらはイエスです。ですから、例えリーダーであっても、それぞれの役割において奉仕するというだけの事なのです。役割の大きいリーダーほどより大きな奉仕をしなければならないのですが、だからといって、彼らが教会のかしらではありません。リーダーは他の信者との間に上下関係がありません。リーダーはその権威を自分の為に使って、彼に従うように他の信者に命令する事はできません。リーダーの権威は、かしらであるイエスのもので、それは教会の成長の為に使われます。全ての権威はイエスが持っています。エクレシアのリーダーは尊敬されるべきだとしても、軍隊のように上下の階級がある組織とは違います。

 クリスチャンの集いが人間的(肉的)な組織によるものだと、創立者が「かしら」のように振る舞っているのは、よくある事です。しかし、本当のエクレシアでは、イエスだけが教会のかしらであり、信者は一つの体です。人間的な考えで組織を創立した人は、その中で自分の都合の良いルールを設ける事は出来ますが、それはもはや聖書的な教会(エクレシア)ではありません。その集会のルールがイエスの教えに基づくものでないのなら、その集会は本来のエクレシアの機能を持っていない事になります。それぞれの集まりは独自のルールを持っても良いのですが、あくまでも新しい契約の範囲で作らなければなりません。

 クリスチャンが「教会」という時、信者とその成長にあまり注目しません。本来は、皆が成長の為に集まっているのにも関わらず、その目的が達成されずとも、熱心に教会に集う状況があるのです。それは、祈りが聞かれなくとも祈祷会に参加する事と同じであり、儀式をひたすら行う事に満足している宗教と同じです。「義理」を感じて献金を捧げている事も同じです。本質を見逃しておいて、形だけの儀式にこだわる考えは、全て宗教です。

教会の定義 2に続きます。