信仰とは その2

私たちの信仰は神に対するものであり、主の言葉、イエスの教えに対するものです。この信仰は行動を伴うものであり、単なる概念とは違います。ですから、行動が一切伴わないものは聖書的な信仰ではなく、神と神の言葉に信頼を置くという事は、必然と何らかの行動を生み出すものなのです。ちょうど、神と共に歩むという事が、実際に神と歩調を合わせて歩む事であるのと同じです。神と歩む事は単なる考え方だけではなく、実際にそれに関係する行動を行うものです。

では、聖書の教える信仰とは、具体的にどういう行動かを説明して行きます。それは、神が私たちに約束して下さった事に基づくものです。私たちは神を賛美しますが、神の恵みに逆らう悪に対しては対抗します。サタンがもたらした悪に満ちているこの世は、神の言葉に逆らう考えに溢れています。ですから、私たちの信仰の戦いは世に対するものと言えます。サタンの誘惑に負けない為の戦いが、信仰とも言えるのです。すなわち、世に流されずに、神と神の言葉を信頼し続けるという行動の事です。この行動を三つの観点から見ます。

神への信頼を深める

信仰を行動において現すなら、神への信頼を深めて行く事になります。神に対する信頼を強める事は、私たちの成長を意味します。今、あなたが持っている信仰は強められる必要があります。何故なら、あなたはより霊的に成長するべきだからです。もし、何もしないのなら、信仰は強くなりません。正しい鍛錬を通るなら信仰が強くなり、あなたは神に対するより強い信頼を持てるようになります。

神の約束を現わす信仰は神の約束を現実にします。神を信じていると言うクリスチャンは多いのですが、その人の周りに御霊の実と御霊の力が見られないのなら、その信仰は役に立たない信仰となります。この場合、その人の信仰が何の結果も出していないからです。神を信じる人は神の力を現すのが一般的です。聖書に書かれている信仰の人々は、彼らの信仰に基づく勇気ある行動を起こした結果、様々な奇跡を体験しました。

信じ続ける信仰とは、何があっても信じ続ける事です。何かに影響されて神への信頼を弱めたり、揺らいだりする事があってはなりません。信じ続けるとは、信じるという行動を継続して行うという事です。体を鍛えた人が、その体型を維持するには、鍛え続けなければいけません。神への信仰もそれと同じ事です。私たちは、自分の信仰をメンテナンスする必要があります。その理由は、私たちが油断している時に敵は攻撃して来るからです。

信仰とは、私たちが意図的に実践する部分があります。これは、神との歩調を合わせるような行動です。私たちが信仰によって神に近づく時、神は私たちを助けて下さり、共に働いて下さいます。私たちが神との共同作業をする事によって、神の栄光や祝福が地上に現れるのです。

結論として、もし私たちが毎日、意図的に正しい信仰の行動を続けていないなら、それは聖書的な意味での「信じる」事にはならないのです。正しい信仰の行動とは、思考を一新させる為に御言葉を黙想する事、異言の祈りによって神と交わる事、感謝を捧げる為に賛美をする事です。信仰がもたらす結果は偶然ではなく、私たちの信仰の歩みによって現されます。その為には、私たちは様々な信仰の戦いを通らなければならないでしょう。

私たちが期待している結果に反するものに戦い続け、自分自身を完全に説得し続けなければ、結果が出ないのです。ですから、信仰とは、確実性を高め、完全で不動の説得力を確立させる行動と、いかなる遅延にも耐える為の行動とも言えるでしょう。しかし、私たちが信仰を持つ事ができるなら、私たちは継続して正しい行動を行う事ができ、まだ結果を見ていない状況でも、喜びを持って確信に満ちる事になるのです。