信仰とは

 へブル人への手紙 11:1 をギリシャ語から見てみると、

estin(である is)de(接続詞)pistis(信仰)elpizomenon(所有格: 期待する・望む・信頼する)hupostasis(理解・自信)pragmaton(所有格: 実際のもの・事柄)elegchos(確信)ou(~ない否定)lepomenon(見る)

 elpizomenon(期待する・望む・信頼する)と pragmaton(事柄)は所有格なので、それぞれは直後の語とあわせて、hupostasis(理解・自信)についての elpizomenon(期待する・望む・信頼する)、elegchos(確信)の pragmaton(実際のもの・事柄)となります。

 まとめると、「信仰は理解している事、自信がある事について(期待する・望む・信頼する)ものであり、確信についての実際的なもの(ここでは「見えない」という事)」

 もう少し分かりやすい訳にすると、「信仰とは、理解している事や自信がある事に対して、当然そのようにそうなると期待している事であり、目に見えないけれども、実際にそれがあるとする確信です。」

 私たちが何かについてよく理解していれば、そのよく理解している物事に対して、「~になって欲しい」という望みを置くような事はしません。「絶対こうなる」と自信があるものに対しても望みを置く事はありません。むしろ、現実的な事柄、当たり前に起こる事として捉えます。私たちがそれほどまでに「~になる」と確信している理由は、そうなるという結論を知っている、理解しているからです。まだ実際には見えていない結論、結果が分かる(理解している)というのが信仰です。それが分からない間は信仰ではなく、ただの希望になります。

 たとえ、結果をまだ見ていなくても当り前のようにそうなるという自信・確信のある状態が信仰です。聖書では見えていない事柄に対して信頼する事を信仰の定義としている点に注目するべきです。

 2コリント 5:7「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」

  肉眼では見えないのだけれども、その事について確信できるケースは私たちの生活の周りにもあります。レストランでは通常、入って来る客が食べた後に会計するのが普通になっていますが、どうしてその事が成り立つのでしょうか?それはレストラン側が、食べにくる客が食後にお金を払ってくれると信頼しているからです。目にはまだ見えていない食事代を後に払ってくれると期待・信頼して食事を提供するのは、レストラン側が客に対して信仰を持っているからです。

 同じ様に、私たちの信仰の対象である神は目では見えません。しかし、私たちは神を聖書からしり、そのお方に信頼を置いています。また、私たちの信仰は、主の言葉もその対象となります。すなわち、イエス・キリストとイエス・キリストの教えの言葉に対して私たちは信頼を置くのです。

 信仰が掴みどころのない概念となっている為に、多くのクリスチャンは信仰を複雑に考えてしまいました。信仰を一言で言うならば、「信頼する」という事です。ですから、ある御言葉を信じるのが難しい(信頼する事が難しい)とするなら、恐らくその御言葉の意味がよく分からないからでしょう。十分に理解しているなら、もはやその理解ゆえに「~になって欲しい」という願いにはなりません。むしろ、「聖書にはこう書いてあるから~になる」という理解ゆえに、その約束に信頼を置く事ができます。