キリスト・イエスにつくバプテスマ 1

 ローマ 6:3「それとも、あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」

 バプテスマの定義が分かればこの箇所の意味が理解できるでしょう。一般的にはギリシャ語でバプテスマが何を意味するのかはあまり知られていないので、ここを読む人の殆どが「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」事について理解している人は少ないと思います。何故なら、殆どのクリスチャンがバプテスマと聞くとすぐに水の洗礼式を連想してしまうからです。

 ローマ 6:4-5「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、新しい命に歩む為です。私たちがキリストの死と同じ様になって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じ様になるからです。」

 私たちが「キリストとともに葬られた」理由は、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」だとパウロは言っています。これは、いわゆる「新生」の事を指します。何故なら、「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるから」とある通りです。

 私たちの霊が新しく生まれ変わって(新生して)いるのは、イエスの十字架の御業によるものです。従って、キリストの復活に私たち自身の復活の秘密があるのです。しかし、私たちが新しくよみがえる為には、まず一度、イエスが十字架で死ななければなりませんでした。その方法が絶対条件であるのは、私たち自身も古い人に死ななければいけないからです。

 イエスご自身が道であり真理でありいのちである以上、その他の方法で父なる神の所へ行くことは不可能です。これは、誰もが知っている真理です。そしてそれが意味するのは、イエスの贖いなしには私たちが父なる神の子供たちとしての特権(権威)が与えられないという事です。何故なら、イエスだけが道であって、私たちがそこを通らなければいけない事をイエスが十字架によって示されたからです。

 イエスは十字架上で罪になりました。

 第二コリント 5:21「神は、罪を知らない方を私たちの為に罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となる為です。」

 罪そのものになったイエスは肉体において死にました。何故なら、罪に対する究極的な刑罰は死だからです。本来は私たちが私たち自身の罪ゆえにその刑罰を受けるべきでした。それがモーセの律法の義です。しかし、更に優れたキリストの義は赦しと憐れみでした。イエスが自ら子羊となってその汚れのない血によって私たちの罪を取り除いて下さったのです。しかし、罪自体は処分される事になっていたので、イエスの犠牲は必須でした。その犠牲は私たちの為です。

 エペソ 4:8-9「その為、こう言われています。『彼はいと高き所に上った時、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。』「上った」という事は、彼が低い所、つまり地上に降られたという事でなくて何でしょうか。」

 この箇所はイエスが死んだ事を意味しています。「いと高き所に上った」はキリストの復活を意味しているからです。復活とは、イエスが死んで蘇った事です。

 黙示録 1:17-18「この方を見た時、私は死んだ者のように、その足元に倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れる事はない。私は初めであり、終わりであり、生きている者である。私は死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」

 死んだイエスはよみがえりました。そして、今も生きています。この真理は現在の私たちにとっても適応されます。

 使徒の働き 13:33「神はイエスを蘇らせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就して下さいました。詩篇の第二篇に、『あなたは私の子。私が今日、あなたを生んだ』と書かれている通りです。」

 第一コリント 15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から蘇られました。」

 エペソ 1:20「この大能の力を神はキリストの内に働かせて、キリストを死者の中から蘇らせ、天上でご自分の右の座に着かせて、」

 
エペソ 4:10「この降られた方ご自身は、全てのものを満たす為に、諸々の天よりも高く上られた方でもあります。」

 蘇られたイエスは御父の所に上られました。そして神の右の座に着座しておられます。

キリスト・イエスにつくバプテスマ 2に続きます。