油注ぎ 1

 油注ぎを受ける、それをキープする、その他の油注ぎに関連するメッセージは、幾らかの誤解を含んでいる事があります。諸々の事柄に関する解決策を油注ぎと関連付けて、油注ぎこそが究極の鍵だとするのは、極端な見方であり、古い契約に基づくものです。

 古い契約時代では、祭司、預言者、王は「油注がれた者」として特別に主の働きの為に選ばれていました。その頃、主の為に働いている人たちはごく僅かで、彼らはリーダー的な立場でイスラエルの民を導いていました。確かに、その時代では「油注がれた者」としての彼らは、特別な存在でした。しかし、新しい契約の下では違います。

 油注ぎは聖霊の力と関係していますが、それ自体は聖霊でも聖霊の力でもありません。シンボル的な意味において「油注ぎ=聖霊」として解釈される事はありますが、油注ぎ自体の意味は油などを塗る、こすりつけるというものです。これは、祭司、預言者や王を選ぶ時に行われた儀式で、「聖別する」という目的で行われました。確かに、油注ぎは聖霊の力と関係している事は間違いありません。何故なら、油を注がれた者には聖霊が臨み、聖霊が望むと力を受けるからなのです。しかし、油注ぎ自体は、聖霊に満たされる事や神の力を受ける為の儀式にしか過ぎないのです。

油注ぎと聖霊の満たし

 ギリシャ語訳のイザヤ書の 61:1は、以下の英語訳とほぼ同じで、主の霊がキリストの上に留まっているのは、主が油を注いだからだと書いてあります。

 英語 :「Spirit of the lord is upon me, because he anointed me to announce good news to the poor.」

 日本語 :「主の霊が私の上にある。何故なら、主が私に油を注いで貧しい者に良い知らせを伝える為である。」

 つまり、油注ぎ(聖別の為の儀式)があったから聖霊が望むという順序なのです。これがどういう意味を持つかといえば、油注ぎ自体が大切なのではなく、聖霊が望む事がより大事であり、その為に油注ぎが必要となっているという事です。聖書的には「油が注がれたので、聖霊を受ける」という事なのです。油注ぎ(聖別の為の儀式)が先で、その後、聖霊を受けるという順番です。

 さて、新しい契約の下において、聖別はいつ起こるかと言えばイエス・キリストを信じた時です。その時に私たちは、義とされ、聖い者とされるのです。同時に、聖霊の内住も起こります。これをきちんと理解していれば、聖霊が私たちクリスチャンの中に常に住んでいるのに、再び聖別の為の儀式(油注ぎ)を求めるというおかしな事をしなくても良いと分かるはずです。聖霊の内住そのものが、私たちが既に油注ぎという聖別の儀式が終わった事を証明しているのです。聖霊が私たちから去っていく事があるなら、再び油注ぎが必要になるでしょう。確かに古い契約、律法の下では罪の為に聖霊は去っていく事もありました。ところが、新しい契約の下では、イエスは聖霊を通して私たちといつも共にいます。主の恵みはそれほど偉大なのです。

 Χριστός(Christos)はキリストを意味し、それは「油注ぎ」を意味します。すなわち、イエスが油注がれた者だという意味です。古い契約の時代においては、油注ぎの儀式をする人は預言者だったのですが、新しい契約が始まった時からは、預言者による油注ぎの儀式もなくなりました。その代わりに、神ご自身がキリスト(油注がれた者)を私たちに注ぎます。信じる人に、神が油注がれた者(キリスト)を与える、そしてその結果、聖霊が与えられるという事です。

 さて、油注ぎ(聖別の為の儀式)を受けたら、癒しができるようになるなどのメッセージもあったりしますが、もしそうであったなら、もっと癒しが(或いはその他の賜物による奇跡が)頻繁に起こっていても良いはずです。これは御霊の賜物のテーマになってしまいますが、実は私たちの内にいる聖霊を通して、また、私たちが信者であるという事だけで御霊の賜物を表す事ができるのです。誰かの按手を必須としているのではありません。問題は信じるかどうかなのです。聖霊の賜物でもその他の祝福でも、それらを信じて行動に移す事が、最も重要な事なのです。何故なら、全ての霊的祝福は既に私たちに与えられているからです。

 そういうわけで、油注ぎを求める必要のない最大の理由は、イエス・キリストという油注がれたお方が既に私たちの中にいるからです。究極の「油注ぎ」が私たちと共にいるという真理だけで十分なのです。エリヤの二倍の油注ぎを求める必要はありません。エリヤよりも優れた方が私たちのうちにいるからです。この二倍の油注ぎに関する教えも旧約聖書の引用だけを元にしています。しかし、恵みの下にいる私たちは、そのような古い考え方を必要としません。間違った教えの多くは、律法と恵みを混ぜたものや、恵みを十分に理解していない所から発展したものです。イエスの十字架御業によって何が変わったかを知らないと、このような間違いに気づかないでしょう。

 旧約時代では油注がれた者は特別扱いされた人たちでした。ところが、キリストの十字架の恵みによって、聖霊が豊かに降り注いでいる現在では、キリストを信じる人全てに豊かに油が注がれているのです。何故なら、聖霊を通してイエスご自身も私たちの内におられるからです。ですから、「油注がれた牧師」などと呼ぶ必要はありません。彼らを特別扱いする考えは間違っています。こうした考えは、人を必要以上に高め、キリストの教えに従わないようにしてしまいます。

五職との関係

 五役者に関わる間違った教えも油注ぎと深く関連しています。彼らは何か特別な存在ではありません。しかし、油注ぎについての間違った教えが広まってしまった為に、多くのクリスチャンは、今日でも主が特別に特定の人々を用いられると勘違いしています。実際は、主が特別に選ぶ事だけではなく、成長してその責任を負える人なら誰でも、御霊の力によって神の子として働く事もできるのです。五役者とは、一般信徒とエリートのような区別で分けて考えるような存在ではありません。彼らはリーダーとしての役割を持ちますが、それぞれの働きに応じて、キリストの体の各部分として働きをしているに過ぎません。

 ある人たちは、使徒や預言者が主によって召されている最も権威のあるエリートだなどと言って、一般信徒は彼らに従うように教えていますが、そのような肉の思いで作られた教会を建てるようにとパウロは教えていません。これは、エペソ人への手紙 4:11-12 の箇所を勘違いして解釈してしまったのが主な原因ですが、こうした「五役者」に関する誤解は70年代の Shepherding Movement(羊飼い運動)などによって異端的なものにまで発展しました。ピーター・ワグナーを中心に推進された(New Apostolic Reformation)などは、少しは改善された所もありましたが、使徒と預言者の権威を主張し過ぎている点は、今も変わっていません。

 油注ぎに関する間違った教えは、御霊の賜物によって大きくミニストリーを展開していた人などが、自分自身を特別扱いする事から始まってしまったようなものです。彼らが「特別な存在」である事と、彼らの「特別な権威」を主張したがるのは、旧約聖書の誤用がその背後にあるからです。

 Shepherding Movement はカリスマ運動の中でも大きく失敗したものです。使徒と預言者が絶対的権力を持つ存在として教えられ、当時、一部の教会では、彼らによる極端な服従を要求されました。NAR を推進したピーター・ワグナーは Shepherding Movement を再興させたものではなく、使徒と預言者が教会の土台となっているという聖書の箇所からこの二つのポジションをより重要なリーダーとして見ているだけです。しかし、これらのリーダーによる人間的な教会(肉によって組織化された教会)に関しては正しいとは言えません。

 私たちがミニストリーにおいて真に成功するのは、神が私たちと共に働いて下さるからです。神は、私たちが御言葉に対して信頼を起き、献身的に神と人に仕える時、私たちと共に働かれるのです。神が特別にある人々を選んでいるので、その人のミニストリーが成功しているなら、その人は確かに特別な者となるでしょう。ところが、聖霊は私たち一人一人の中に住んでいるという真理から、皆がイエスによって油注がれて(聖別されて)います。

 彼らの誤解は、聖霊のバプテスマを通して神の力を受ける事と、油注ぎを混同している所から来ています。つまり、油注ぎの意味を聖霊の力だと勘違いしているのです。この誤解と、「特別な聖別された者」という旧約聖書の考え方が加えられた為に、言葉の定義の問題を超えてしまいました。しかし、私たち全てのクリスチャンが祭司であり王なのです。>
 私たちが古い契約の時代の預言者のように、奉仕の為に、神に特別に選ばれなくても良い理由は、私たちが既にそのような者として生まれ変わっており、後は成長して行くだけで、そのような者として働く事ができるからです。しかも私たちは、ただ神に仕える者という存在を超えました。イエスと同じように神の子となり、与えられた主の権威と力を信仰によって自由に働かせ、この地を治める事ができる存在に生まれ変わったのです。

油注ぎ 2に続きます。