神の信仰 1

 マルコ 11:22「イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。」

 「神を信じなさい」と訳されているのですが、ギリシャ語では「信じる」の動詞は用いられていません。むしろ、信仰を持ちなさいとなっています。22節はギリシャ語によると次のようになっています。

 echete(持つ)pistin(信仰)theou(神の[名詞・所有各])

 所有を意味する theou という事で、「神の信仰」と訳す事もできます。何人かの解説者は、この訳の可能性に関して言及しているものの、殆どの英語訳の聖書では、Have faith in God となっています。日本語にすれば、「神に対して信仰を持ちなさい」です。

 「神の信仰」を持つ事が祝福を受ける鍵だと教えた人たちが過去にもいました。人間的な信仰と比較して神の信仰を持たなければいけないなどと強調した信仰に関する教えの事です。自由意志と信仰の記事で書いたように、神の信仰が「信じる事ができる力」だとして、誤解されがちな方向に向かっているのは、信仰がそもそも私たちが信じるという決断をするという事であり、自由意志が関わるという点を見逃しているからです。信仰の定義の曖昧さが誤解を引き起こしているのです。

 このマルコ11章22節に関する解説者の殆どが、「神の信仰」を神のような偉大な信仰を持つ事と説明しています。人の気まぐれな信仰ではなく、不動の信仰という解説が一般的です。ところが、それを獲得するのが秘訣という考え方は大きな問題点があります。ある人などは「神の信仰」を得る事が本当の意味で信仰を持つ事だと教えています。つまり、神が与える神の信仰を得る事ができれば、信じる事ができるというものです。しかし、この教えの問題点は、私たちがどのようにして、神から神ご自身の信仰を受け取るかという所にあります。

 神は、私たちが神を信じた時に、神の信仰が与えられるのでしょうか?それとも、私たちが神を信じる前に与えられるのでしょうか?未信者の間は神を信じる事ができない理由を、彼らには神の信仰が与えられていないからだとすると、神はいつ彼らに信仰を与えるのでしょう?信者になった時に神の信仰が与えられるのなら、そもそもどのようにして神を信じる事ができたかという疑問も生じます。

 ある人々は、「救いの信仰」とは別に、救われた後の信者が信仰によって歩める為に必要な信仰も、熱心に神に求める必要があるとします。そうなると、その人の祈り次第で信仰が与えられるという事になります。神が人々に信仰を与え、その結果、人々が神を信じる事ができるのであれば、人々の信仰がない原因は、神が彼らに信仰を与えていないからだという事になります。 

 この種の問題は、信じるという事が私たちの決断である事を知らない為に生じるものです。神が何か不思議な力で私たちを信じるようにして下さるというものではありません。ですから、信仰が神からプレゼントのように与えられるのではありません。聖霊は人々が信じるように促す事はあっても、信仰そのものを与えて下さる事はありません。救いの信仰でも、キリスト者としての歩みの信仰でも、私たちが信じるという決断をしなければならないのです。

 仮に主から信仰を与えらえているとしましょう。実際にそれをほのめかしている箇所はマルコ 11:22 以外にもあります。しかし、主から信仰を与えられているという御言葉を信じないのなら、せっかく与えられている信仰も拒絶している為に意味がありません。つまり、信仰が与えられているから信じられるというのではなく、私たちの自由意思で、いつでも信じる事ができるというだけの話です。

 私たちは、信じる力を与えて下さるように神に祈る必要はありません。信じる事ができないのは、私たちが世的なものや、古い契約の視点から聖書を考えているからです。御言葉の真理を常に口ずさんで真理を思いを巡らす(口ずさむ)なら、自然と神と聖書の言葉を信じられるようになります。無駄な時間を減らして、御言葉を思い巡らす時間を設ければ、誰でも御言葉を信じる事ができます。御言葉に反するような考えで時間を過ごす程、信仰を持つ事が難しくなります。

 詩篇 1:1-3「幸いな事よ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

 信じる事ができないもう一つの大きな理由は、間違った教えを真理としてしまっているからです。しかし真理を信じると、真理はその人を自由にします。あなたの今まで信じてきたものがあなた自身を自由にしていないのなら、それは間違った教えである可能性があります。「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」とヨハネは言いました。そして、イエスご自身が真理なのです。

 宗教的な解釈で御言葉を無効にしてしまった教えは人を自由にしません。真理を熱心に求める人は、必ず真理にたどり着きます。特に、信者の場合はそうです。聖霊が全ての信者を真理に導くからです。多くの人は誰かの教えを鵜呑みにしてしまい、自分で聖書を開いて読む事をあまりしません。このブログの内容も含めて、全て自分で聖書から調べて吟味する習慣をお勧めします。

神の信仰 2に続きます。