リバイバルについて

  リバイバルの為に祈っているクリスチャンが大勢いるのに、どうして神はその祈りに答えて下さらないのでしょうか?その答えとして、祈りが足りない、断食が足りない、罪の悔い改めが足りない、その他の諸々の「神に訴えるべきもの」などが足りないと考えているクリスチャンは多いでしょう。しかし、こういった私たちの必死のアピールと願いによって、神がリバイバルの油注ぎを与えて下さるという事なのでしょうか?ある人は、必死に祈るなら神は動いて下さると言いますが、正しくは、「神の御心に従って願うなら、神は聞いて下さる」という事なのです。

 殆どの人が、熱心な祈りや罪の悔い改めなどがリバイバルの鍵だと思っています。これらの事をすれば神が憐れんで下さると考えています。必死に執り成しの祈りをすれば、神がそれに答えると思っているのです。祈りは確かに必要なのですが、信仰による祈り、御心に沿う祈りが力がある祈りなのです。又、リバイバルの為に祈るだけではなく、それに伴った歩み(信仰の歩み)をする必要があります。

 過去の時代において、クリスチャンが信仰によって歩んでいなかった中でもリバイバルはありました。それでも、祈り、断食、「反省の意味の悔い改め(一般的の誤った定義)」がリバイバルを引き出す原則ではありません。人の信仰が無い時には、神の特別な計らいがあったのであって、それは神の本当の御心とは離れたものだったのです。主は、リバイバルを熱心に求める人たちを望んでいるのではなく、クリスチャンが神の子として目覚め、信仰を持って彼ら自身がリバイバルを起こすように働く事を待っているのです。主はいつでも私たちの信仰の一歩を待っておられます。

 旧約聖書の時代では多くの預言者が執り成しをしました。しかし、十字架の救いの恵みが明らかにされた今は、私たちは旧約聖書時代の預言者のような立場よりも、もっと優れているのです。神の子として私たちはこの地上をイエスの権威と聖霊の力で御国の国を前進させる事ができるのです。もはや神に憐れみを乞いて、リバイバルを期待する必要がないのです。私たちはイエスの十字架における勝利ゆえに、あらゆる面において既に勝利を得ているのです。サタンでさえ私たちの足の下にいるのに、一体どれほど強い霊が地域を縛っていて、その為に福音のメッセージが届かない事になっているのでしょう?

 神の憐れみは既に十字架において完全に現れました。イエスが全人類の罪の為に死なれたので、神が人間に対して何か怒っている事はありません。罪の悔い改めや執り成しの祈りをすればリバイバルが起こるなどと勘違いしているのは、旧約聖書の箇所からそうした事例を拾ってしまったからです。私たちは救い主を待つ必要はもうありません。イエスが既に来られたからです。そしてイエスは、宣教命令を私たちに与えられました。

 イエスの十字架で何が変わったかを把握していないと、人はいつでも恵みと律法を混同してしまいます。リバイバルが起こる為に必要なのは単純に福音を宣べ伝える事です。ただしこの場合、御国の福音をよく理解していないと真のリバイバルは見られないでしょう。何故なら、この福音は、イエス・キリストの十字架の勝利を示すからです。それを理解していないのなら、霊の戦いに勝つ事はできません。

 聖霊によって私たち信者は力を与えられているのですが、多くの人はそれを漠然とした概念・知識としてしか知らない為に、何をどうすれば良いか分かっていません。それが原因で、再び古い契約の時代の古い考え方に戻って、必死に神に願い、助けて下さるようにと乞うのです。しかし、イエスの十字架の勝利の宣言、約束の聖霊と力、神の子としての特権などは既に私たちのものなのです。

 霊の戦いについての間違った教えは、クリスチャンを弱い者にしてしまいました。サタンや悪霊を追い出す権威と力を使わずに、ただ祈るだけでは意味がないのです。この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいる諸々の悪霊は私たちを恐れるべきなのす。何故なら、私たちは光の子供たちであり、私たちの内にはイエスがいつもおられるからです。私たちは神の次に力強い存在なのです。

イエスから神の子供として与えられた権威、聖霊のバプテスマを通して受け取った力を持って、力ある伝道で神の国を示すなら、私たちは完全に福音を宣べ伝える事になり、それがリバイバルとなります。多くの人たちは、ただ長い間祈ってきました。祈りの重要さは見逃せません。しかし、祈り自体がリバイバルをもたらすのではないのです。