キリスト・イエスにつくバプテスマ 2

 さて、バプテスマはギリシャ語の baptizo に由来しますが、その意味は「潜水させる、もぐる、浸す」です。そして「キリスト・イエスにつくバプテスマ」とは「キリストの中に浸される」が直訳です。それは、私たちがキリストと一つになる事を意味しています。

 ガラテヤ 3:27-28「キリストにつくバプテスマを受けたあなた方はみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなた方はみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」

 「キリストを着た」とは、私たちがキリストのアイデンティティーを持ったという事であり、クリスチャンが「キリスト者」と呼ばれるのもそれが理由です。私たちはもはや単なる人ではありません。新生は私たちを全く新しい人に変えたのです。ただし、それは私たちの霊が生まれ変わったという事であって、全体的な成長という視点から見れば、思考の一新をしてキリストの身丈にまで達する必要はあります。

 さて、パウロの幾つかの「キリストにあって」という表現も、私たちとキリストの関係を示すものです。

「キリストにあって豊かな者」(第一コリント 1:5)
「キリストにあって賢い者」(第一コリント 4:10)
「キリストにあって義と認められる」(ガラテヤ 2:17)
「キリストにあって励ましがあり」(ピリピ 2:1)
「キリストにあって満たされている」(コロサイ 2:10)

 パウロが「キリストにあって」と言ったのは、私たちがキリストの中に入る事になったからです。それは、私たちがイエスを信じた時にそうなりました。つまり、キリストを信じるという事がキリストの中に入って浸かるという事です。これが「キリスト・イエスにつくバプテスマ」です。浸っている状態を表すのがギリシャ語の baptizo なので、ずっと浸かっている必要があります。ちょうど漬物が浸かっているものであるように、私たちは常にキリストの中に浸かっている必要があります。それは、私たちが常に信仰によって、御霊によって、新しい人として歩む事を意味します。

 その歩みは、日曜日の主日礼拝を守る事だけではありません。或いは、特別な人だけが「献身する」ようなものでもありません。信者は誰でも神の子であり、キリストの弟子としてイエスを証しするのが当然であって、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着て、御霊によって歩んでいるべきなのです。こうした当り前の事が出来ていない私たちは、霊的に幼いのです。

クリスチャンの負う十字架

 さて、私たちがキリストの歩みを模範にする事がキリストの弟子となる事ですが、キリストの贖いだけは別です。イエスは私たちの身代わりになったので、私たち自身が罪となって、十字架で死ぬ必要はありません。病や貧困で苦しむ必要もありません。しかし、イエスが肉において死んだように、私たちも古い人に死ぬ必要があります。

 マタイ 16:24「それからイエスは弟子たちに言われた。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」

 「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」という意味は、「試練」という名目で「全ての困難を耐え抜きなさい」という意味ではありません。宗教的な考え、困難に耐える事を美徳としているような事ではありません

 ローマ 6:6「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。」

 パウロはここで、「私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられている」と言いました。それは、私たちの古いアイデンティティーであり、その古い人はもう死んだのです。ですから、キリストにつく私たちは、古い人は死んだ者としてみなして歩む必要があります。

 私たちがイエスを模範にする理由は、私たちが「キリスト・イエスにつくバプテスマ」を受けた者として、イエスの教えの中に留まるべきだからです。そうする為には、まず古い人を死んだ者としてみなさないといけません。人は、(古い人に死んで)新しく生まれなければ、神の国を見る事はできないからです。イエスはその道を私たちに示しました。もし、私たちがキリストの十字架を模範にしないなら、古い人がキリストと共に十字架につけられたという真理を知らないまま歩み、結果として、私たちは古い人として歩む事になります。古い人で生きるという事は、肉の思いで生きるという事でもあります。それでは、私たちは新しい人として歩む事ができません。

 キリストの復活は私たちの新生(新しく生まれる、霊によって生まれる)を意味するので、私たちは復活した、新しい人なのです。そして、その復活にあずかるには、古い人が過ぎ去った存在である事を信じなければならないのです。未信者の場合は、古い人が過ぎ去ってはいません。しかし、クリスチャンとしての私たちの歩みが幼かった時も、私たちは古い人として歩んで来たのです。パウロは、そうした真理を知らず、古い人のまま歩んではならないと教えたのです。古い人を脱ぎ去り、新しい人、キリストを着なさいと教えました。何故なら、キリストを着ていない人は、キリストの香りを放って、キリストの証人となる事はできないからです。

 私たちが「キリスト・イエスにつくバプテスマ」を受けた以上、私たちの古い人はキリストと共に葬られたと見なさなくてはなりません。そうでなければ、私たちは決して勝利のある歩みができないでしょう。何故なら私たちは、キリストが中におられるという認識があるからこそ、勝利者として考える事ができるからです。それは、私たち神の子の本来の考え方であり、キリストの考え方なのです。