第一ヨハネ1:9 2

  第一ヨハネ 1:9の聖句を正しく理解するには、「告白」と訳されているギリシャ語が、「homologeō(同じ事を言う)」である事と、「赦し」と「清めて」の動詞がアオリストの形になっている事を知り、それに加え、イエスの贖いによる血によって、罪の赦しがある事を知らなければなりません。

 これらを理解せずに読み、悔い改めの意味を「犯した罪について反省する」と誤解して定義すると、第一ヨハネ 1:9を、「罪の告白の聖句」としてしまうでしょう。犯した罪を反省して神に告白をすれば、神がその人の罪を赦し、全ての悪から清めて下さるという解釈が典型です。しかし、既にイエスが十字架で全ての罪を赦して下さったのが真理です。犯した罪の告白の有無によって罪が赦されるのではなく、イエスの十字架の贖いによる血だけが人の罪の赦しを宣言しているのです。後は、その神の恵みを信じて、罪の赦しを受けるだけです。

 ある人は、十字架で罪は赦されているけれども、それを受け取る為に、「罪を深く反省するという悔い改め」をして、犯した罪を口で告白する必要があると言います。正しくは、イエスの十字架の御業を信じる事によって、既に罪が赦されている真理を個人的に受け取って、解放されるという事なのです。

 ある人は、「信じて口で告白する必要がある」と主張して、ローマの10章10節を間違って引用します。そこに書かれているのは、犯した罪の告白ではなく、イエス・キリストを救い主であると信じ、それを告白するという内容です。犯した罪を意識させる罪意識は、律法主義から見る視点によって、罪の告白を罪の赦しを受ける条件にしてしまいます。しかし、恵みは常に私たちをイエスとその十字架の御業に導きます。律法の義は裁いて刑罰を与えますが、イエスの義は人を憐れんで赦しを与えます。恵みによる義はキリストの義であり、私たちがイエスを信じる事によって、神に義と認められる点で、より優れた義
なのです。

 さて、誤解の下に罪の告白をしたからといっても、それ自体は悪いものではありませんが、それに力があるわけでもありません。罪を解放する力はイエス・キリストの贖いの血にあります。人はそこに目を向けずに、自分の罪を自分で処理しようとします。それは、自分自身の罪に目を向ける傾向(罪意識)があるからです。しかし、真理(イエス)だけが私たちを自由にするのです。残念ながら多くのクリスチャンでさえ、イエスの恵みに目を向けず、自分の罪に目を向けて、悔い改めという自己反省によって、神に赦されようとします。しかし、私たちが何かをする事によって、神が私たちの罪を赦されるという事ではありません。イエスの聖なる血だけが私たちの罪を取り除いたという真理を知らずにいると、私たちは罪意識から解放されないでしょう。

 それでは、第一ヨハネの手紙 1:9 に書いてある「告白」とは何を意味するか?という事になります。信仰によって罪の赦しを受けるのですから、そこを基本として「告白」の意味を考えれば良いのです。

 
第一ヨハネ 1:8「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」

 ヨハネは、私たちには常に罪があるという事を指摘する為に、このように書いたのではありません。人々の罪はイエスの十字架の前でも赦されてました。クリスチャンである私たちは罪人ではなく、義人となったのが真理です。ここでヨハネが意味したのは、誰かが「自分には罪はない、罪とは全く関係がない」と主張するのなら、それは間違っていると言っているのです。人が最初から罪と無関係だったなら、イエスは十字架に掛かる必要はなかった事になります。しかし、イエスが十字架に掛かった以上、人は誰でも罪ある存在として見なされている事が明らかです。しかしその十字架は、神の恵みを表すものとして私たちに示されています。何故なら、キリストの十字架の御業は、人の罪の取り除きと、罪の赦しを示すものだからです。

  第一ヨハネ 1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義から清めて下さいます。 」

 罪の告白をすれば(条件)、神がその罪をその時に赦すのか、それとも私たちの告白以前に、既に罪は十字架によって赦されているのかが論点です。

 
第一ヨハネの手紙 1:10「もし罪を犯した事がないと言うなら、私たちは神を偽り者とする事になり、私たちの内に神の言葉はありません。 」

 ここも8節と同様に、罪を犯した事がないと言う人があれば、それはイエスが十字架に掛かった事を無にする発言であり、イエスのした事は意味のない、偽りな行為と定義してしまうのです。何故なら、イエスは私たち全ての罪の為に十字架に掛かられたからです。それとも、それは作り話でしょうか?もちろん、自分の無罪を主張して神を偽りとするのは正しくありません。

第一ヨハネ 1:9 3に続きます。