聖霊のバプテスマ 1

 聖霊のバプテスマについて、イエスと弟子たちが何を教えていたのかを理解しないと、その損失は計り知れないものになるでしょう。聖霊のバプテスマは、霊的成長の観点からも欠かせないものです。クリスチャンは、新生とは別に、霊的な成長も必要だからです。つまり、聖霊のバプテスマの経験は聖霊が宿るという新生のものとは違うという事です。これは単なる「オプション」ではなく、イエスが弟子たちに命令されたものです。

 ヨハネの福音書 16:7「しかし、私は真実を言います。私が去って行く事は、あなた方の益になるのです。去って行かなければ、あなた方の所に助け主はおいでになりません。でも、行けば、私はあなた方の所に助け主を遣わします。」

  イエスは、ご自身がそのまま地上に残るよりも、聖霊のミニストリーが私たちにとって益であると言われました。私たちは聖霊の働きの重要性に気づかなければいけません。私たちが、イエスを直接見たり聞いたり、或いは触れたりするという事よりも、聖霊が私たちと共にいるのが良いとイエスは言ったのです。しかし、この事から「聖霊がイエスより重要なポジションに置かれている」などという考えは見当違いです。何故なら、御霊はあくまでもイエスに導くからです。

 十字架の御業がなされた後では、イエスは天において神の右の座に着座しておられるのですが、同時に聖霊を通して私たちの内にもおられるのです。私たちはイエスと共にいて、聖霊の助けを受ける事ができ、神の権威と力によって、この世に御国をもたらせる事ができます。しかし、神の力を更に活用するには、聖霊のバプテスマが必要になります。

 御霊の働きは、天地創造の時のから今日でも同じです。御霊の力によって世界が存在し、あらゆる奇跡が起こりました。イエスも、聖霊を受けてから、力あるミニストリーを始めているのですから、私たちが聖霊の力なしでミニストリーを始めようとするのは、愚かな考え方です。注意したいのは、御霊の力は牧師などのリーダーに限定された恩恵ではなく、クリスチャン一人一人が受けるられる恵みです。しかし、聖霊を否定するような考えを受けた人々の間では、御霊の働きを体験できていません。クリスチャンに与えられている力を知られたくないサタンは、そうした間違った教えを教会に広めました。全知全能の神の霊が、私たちのうちに住まわれているのに、私たちの生活が勝利で満ち溢れていないのは、そうした理由からです。多くのクリスチャンは罪の歩みの中に留まり、癒し主としてイエスを信じていると口では言っていても、病気で苦しんでいるという矛盾の中にいるのです。

 聖霊のバプテスマに関する真理を曲解しておけば、その必要性を説く必要もなく、一部の教派にとっては非常に都合よくなります。彼らは、水のバプテスマと同時に聖霊のバプテスマを体験できると主張しますが、この二つは異なるものであり、バプテスマのヨハネが言った事と矛盾します。別の人々は、「救われているから」という事で、聖霊のバプテスマは必要ないと主張します。しかし、聖霊のバプテスマとイエスを信じて新生する事とは、別の事なのです。「救われる為」に聖霊のバプテスマがあるという事ではありません。聖霊のバプテスマが必要なのは、私たちが力を得てイエスを証しする為であり、イエスがしたようなミニストリーをする為です。神の力で悪魔の仕業を打ち壊す為です。聖霊のバプテスマを通して得る神の力は、私たちがイエスのように働く為なのです。人間的な奉仕の働きの中には、殆ど癒しや解放はありません。教会で癒しや解放が見られない大きな理由の一つは、聖霊のバプテスマの理解が乏しいからです。力のないミニストリーは、神が望んでおられるミニストリーではありません。

聖霊のバプテスマ 2に続きます。