悲しみを克服する

 神は私たちを神ご自身に焦点を当てて人生を生きる為に創造されました。最初から、神の目的は、私たちが自己意識ではなく、神意識を持つようにされたのです。アダムとエバが善悪の知識の木から食べるまでは、彼らは自分自身を意識していなかったので、自分たちが裸である事さえ気にしませんでした。しかし、彼らが罪を犯した後、彼らは自分自身に意識を向け、彼らの罪に意識を向けたので、神から隠れたいと思ったのです。彼らの焦点は神から自己に移っていました。

 自己意識は、言い方を変えれば、高ぶりの事です。それは、あらゆる悲しみの根源であるのです。人々は多くの理由で悲しんで、不幸な環境にいますが、彼らの悲しみの理由を分析してみると、それは、彼らがいつも自分たちの欲望が奪われた結果である事に気づくでしょう。ですから、悲しみに対処するには、高ぶりに対処する事で解決するのです。

 例えば、欲望を満たす為に、限度を超えて散財するなら、経済的な問題が発生します。あなたが大きな家、新しい車、最新のテレビなどがないという事に、悲しみや不満があるなら、あなたには問題があります。欲望をニーズに変え、それを個人的な問題にしてしまうのは、人の自己意識、暮らし向きの自慢が原因です。御霊に満たされた事のある信者が、世的な人々と同じくらい利己的になってしまった事もあります。このような人々は、聖書が言う富についての原則を知りません。

 マタイ 6:33「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」

 神は、まず神の国と神の義を求める事による副産物として、私たちが必要なものが加えて与えられるという原則を作られました。これは私たちが神の富を得る為の、第一の原則であり、御国の原則です。

 ルカ 6:38「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」

 2コリント 9:6「私が伝えたい事は、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。」

 イエスとパウロは、「種蒔きの法則」を教えました。この原則は、蒔いた分のものを刈り取るという事です。これらの原則を無視して、私たちが自分なりの方法で富を得ようとするなら、自己意識によるもの、肉の思いによる方法に頼る事になります。そこには常にリスクがあります。

 愛する人が亡くなった場合でも、私たちの悲しみは個人的な損失に根ざしている場合があります。「愛する人なしで、この先、どうやって生きていけば良いのですか?もう二度と会う事はないでしょう」と言って、主観的にその事を捉えがちです。もちろん、私たちは亡くなった人々の死を悼んでいる事は間違いありませんが、それが私たちにどう影響するかについては、どうしようもないのです。

 その人が新生された信者であったなら、主と共にいる事を喜ぶべきです。私たちが自己意識によって、失ったものについて考えるのではなく、イエスと共にいる人に焦点を当てるなら、それは悲しみではなく、喜びになるのです。又、あなたが信者である場合、御霊の実である喜びは常にあなたの中にあります。ですから、肉の思いで考えるのをやめ、御言葉を思い巡らすなら、その喜びを外に表す事ができます。

 箴言 13:10「高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。」

 私たちの経験する悲しみは、人との関係から来ます。何故なら、人との関係の中に争いがあり、それは高ぶりが原因になっているからです。高ぶりは自己意識から来る肉の思いで、他の人の事を考えません。しかし殆どの人は、高ぶりを傲慢として認識しています。高ぶりには、偽りの謙虚、臆病、卑下なども種類もあります。内気な人や、恥ずかしがり屋の人も、高ぶりを持っているのです。彼らは、自分が何か間違った事をしてしまった場合、他の人がどう思うかを非常に気にしています。彼らは自分が批判されるリスクを避け、自己防衛の手段として、臆病になるのです。又、偽りの謙遜を持つ人は、自尊心を低くする事を謙遜だと思い、大胆に主張する事などは高ぶりだと信じています。しかし、これも間違っています。

 ヤコブ 4:10「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高く上げて下さいます。」

 例えば、卑下という種類の高ぶりを持っている人の場合、神によって高く上げられる事を拒みます。その人は、他人の批判を恐れている為、自分自身を卑しくする事によって、それを回避しようとするのです。しかし真に謙遜な人は、神の言葉を受け入れます。真の謙遜とは、あなたが誰であるかについて、神の言葉が語っている事に同意し、あなたはできると神の言葉が約束している事を実践します。人々があなたの事をどう思うかを、あなたが心配しているのなら、あなたは自分を中心に考えているのです。

 謙遜な人は、肉の思いで考えません。その人は、自分の肉のわざに死んでいます。自分の古い人に死んでいるのなら、他人の言葉に傷つく事はありません。あなたが奉仕の働きへと自分の行く道を進めるのなら、他人の言葉ばかり気にしてはいけません。それは、自分自身の事を気にしすぎる事なのです。むしろ、奉仕するべき人々に心を配る必要があります。そうすれば、神はあなたをいつもサポートして下さるでしょう。ですから、自分の為の教会を建て上げるのではなく、主の教会を意識して下さい。人々はあなたの羊ではなく、神の羊であり、あなたの兄弟姉妹なのです。彼らはあなたの部下ではありません。御言葉を教える時も、大胆に権威を持って教えなければなりません。恐れや疑いは、肉であり、悪霊からの影響によるものです。

 2テモテ 2:11-13「次の言葉は真実です。『私たちが、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストと共に王となる。キリストを否むなら、キリストも又、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否む事ができないからである。』」 

 ガラテヤ 2:19-20「しかし私は、神に生きる為に、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私の為にご自分を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです。」

 これらの聖句は、私たちが古い自分に死んで、キリストの中で生きる事を教えています。古い自分に死んだ人は、侮辱されても気分を害しません。何も気にする事はないのです。高ぶりのある人は、肉によって歩んでいる人であり、古い人のまま歩んでいる人なのです。そういう人は、簡単に他人の言葉に傷つき、気分を損ねます。ですから、古い自分に死んで、自分に意識を向けない事が謙遜への第一歩なのです。とはいえ、自己に対処する正しい方法は、古い人に死ぬ事に全力を注ぐという事ではありません。あなたは、古い人に死ぬと同時に、新しい人にあって歩む事が必要です。自分自身がキリストにあって何者かを知らずにいる間は、謙遜にあって歩む事にはならないでしょう。つまり、あなたが新しい人として歩む時こそ、真の謙遜を理解する事になるのです。新しい人は、キリストと共に歩む事に意識を向ける為、常に神を意識するでしょう。そこには、神に対する献身的な思いがあり、もはや自己意識で何かを考える事はありません。

 ローマ 12:1「ですから、兄弟たち、私は神の憐れみによって、あなた方に勧めます。あなた方の体を、神に喜ばれる、聖なる生きた捧げ物として献げなさい。それこそ、あなた方にふさわしい礼拝です。」

 私たちが自分たちの体を、神に喜ばれる、聖なる生きた捧げ物として献げる事は、ある種の自己犠牲です。それは、私たちにふさわしい礼拝だとパウロは教えています。ここで大切なのは、献身の道を進んで行く事を日々決断するという事です。私たちは、常に自分の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ていなければなりません。別の言い方をすれば、私たちは常に思考を一新して、御言葉によって私たちを清く保つ必要があるのです。そうすれば、私たちは毎日、キリストに意識を向けて歩めるでしょう。

 神を意識している人は、隣人を愛する事も考えます。その為、人々のニーズに目を向け、自分自身のニーズを忘れるようになります。このように歩み始めると、以前は重要だと思っていたものが、本当には重要でなかったと分かるようになります。他人への愛は、自己意識、肉の思いを過ぎ去らせ、人に仕える精神を確立させます。そこに焦点を当てている人は、悲しむ事はありません。何故なら、神を愛し、人を愛するという事は、本来、私たちの最高の喜びだからです。