極端な恵み

 Hyper-Grace (ハイパーグレイス) とは、グレイス (恵み) を極端に解釈してしまった教えです。この教えの特徴は、罪を犯すのは人間だから仕方がないという態度で、罪に対する私たちの責任を軽んじている点です。

 クリスチャンは、罪の奴隷から解放されて義の奴隷となったとパウロは教えています。ですから、恵みの福音によって私たちはますます「キリストの義」を意識して、義の道を歩む事を目指すべきなのです。人は罪意識の生活をすればより律法主義になり、宗教的な努力でそれから逃れようとすればするほど、同じ罪を犯してしまうという悪循環から抜け出せなくなります。ハイパーグレイスの教えは罪から解放されたという恵みの視点は良いのですが、恵みの理解が中途半端な為に、神の義によって私たちが歩むという所に焦点を当てていません。ハイパーグレイスは罪の赦しについての真理ばかりを見て神の恵みを軽んじています。それによって、罪を犯しても赦されているから深く考えないで良いとしています。クリスチャンは一度救われたら自動的にずっと救われている状態にあるという教えも、カルヴァン主義と同様にハイパーグレイスの特徴です。

 エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

 恵みは神からのものであり、その恵みを信仰をもって受け取る時に私たちは賜物として救われるのです。この救いは行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によるものです。しかし、神の恵みと祝福は自動的に未信者を含む全ての人の上に降り注がれているわけではありません。神からの恵みや祝福はいつでも体験できるのですが、基本的に信じる人の信仰によってのみ体験・現実化する事ができるのです。いわゆる「救い(罪による神の怒りからの救い)」は本人のイエス・キリストに対する信仰によってのみです。

 時には、信仰のない人でも神の憐れみと恵みによって、何らかの祝福を得られる事もあります。しかし、救いの基本が信仰によるように、あらゆる祝福も信仰によるのが基本です。このことから、キリストに対する信仰を捨ててしまう人は自分で救いを捨てる事ができるのです。神の方からは信者を見捨てる事はありませんが、人はそれを自由意思をもってチョイスする事ができるのです。

 ハイパーグレイスはこの自由意志についての理解をおろそかにしている為に、恵みは全ての信者にあらゆる時に(信仰の有無に関わらずに)降り注がれていると教えています。一度信じてしまえば、後は全て自動的に救いのエスカレーターが天国へ運ぶと勘違いしているのです。そのエスカレーターに乗っている間は、たとえ罪を犯しても恵みがあるから特に深く考えないでも良いという立場を取っています。

 ハイパーグレイスはまた、恵みゆえに何もしなくても良いという極端な立場を取り、そこから全ての良い行いを宗教的なものとして誤解しています。宣教命令に従う等のクリスチャンとしてやるべき義の行いも「律法の行い」として曲解しています。彼らは「信仰ゆえの行い」も律法主義にしてしまい、あらゆる良い行いに対して消極的です。この教えを信じているクリスチャンは自分たちの自由を主張して、神の子として歩む意味やその責任を無視して、極端な恵みの解釈に酔っている人たちです。

 ハイパーグレイスの教えで時として大きな問題になるのが、罪を犯してもそれは既に赦されているので、特に考えの一新も必要ないという主張です。彼らは罪の反省にこだわっていない部分ではよいのですが、罪についての考えを一新させることさえしません。

 ローマ 6:14-15「罪があなた方を支配する事はないからです。あなた方は律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんな事はありません。」

 パウロが強く主張しているように、「恵みの下にあるのだから罪を犯しそう」という考えは絶対にありえません。確かに、私たちの罪は過去も、現在も、そして未来においても全ての罪は赦されています。私たちが罪を告白する時に罪が赦されるのではなく、イエスが既に十字架で赦して下さったというのが真理です。ところが、罪を意図的に犯しても良いという態度や、人は原罪を持っているがゆえに罪を犯し続けるのだから仕方がない、などの間違った考えは罪を軽んじてしまう事になります。

 ローマ 6:20-23「あなた方は、罪の奴隷であった時、義については自由に振る舞っていました。ではその頃、あなた方はどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着く所は永遠の命です。罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」

 「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」という部分に注目して下さい。罪から解放されて神の奴隷となったのは「今」だとパウロは言っています。この手紙を読んでいるローマにいる信者が「今」は神の奴隷となったのであり、キリストの福音を信じる以前は、罪の奴隷であったのです。つまり、全ての罪が十字架で既に赦されたという真理を信じる人は「義の奴隷」になったのです。

 ここのパウロの表現には注意が必要です。パウロは意図をもって「奴隷」という言葉を使っているのであり、クリスチャンが「義の奴隷」であるからと言って何かに「束縛」されているのではありません。パウロは「罪の奴隷」という表現と対比させて「義の奴隷」と言って、信者になったらあ たかも義の行いをせざるを得ないような、まるで「良い行いをする奴隷」(むしろこれは良い意味)であると説明しただけです。

 もう一つ注意したいのは、神の操作によって人がロボットのように義を行う者として歩まされるという事ではなく、人が自分の自由意志によって悪事を働く罪の奴隷だったように、今は信者となり、同じ自由意思によって義の道を選択できるとパウロは言っているのです。

 ローマ 6:16「あなた方は知らないのですか。あなた方が自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。」

 事実、クリスチャンは義によって歩む事を自然と求めているべきであり、それなら義を行う事が当たり前の者であり、それは義の奴隷とも言えるのです。以前は罪に従う者、罪の奴隷であったのに、今は神の義人となり、義の道を歩むようになった事を強調する為に、パウロはこのような表現を用いたのです。

 クリスチャンでも原罪があると信じている人たちや、律法主義に走って恵みを受けそこなっている人たち、或いは、ハイパーグレイスを信じている人たちに共通しているのは、神の恵みに対する理解が不十分な点です。彼らは、恵みが罪の赦しと救いの為だけに存在しているような理解を持っていますが、そうではありません。

 テトス 2:11-13「実に、全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」

 最後の方に「教えています」とありますが、「何を」教えているかを見極める必要があります。「その恵みは」と「教えています」の2箇所に注目すれば、全体が把握できるはずです。「その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています」とあるように、神の恵みは単に罪の赦しと救いに関するものだけではなく、救われた後のクリスチャンの歩みにも及ぶのです。

 パウロによると、神の恵みは「私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように」教えているのです。従って、神の恵みをきちんと理解しているなら、罪は赦されているから罪を犯しても問題ではないという考えにはなりません。