聖霊のバプテスマ 2

 聖霊は、単に私たちの救いの証印として存在しているだけではなく、私たちを真理へと導き、私たちが御国の福音の為に働く時に、力を与えて助けて下さいます。

 ヨハネ 14:17「この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」

「あなた方と共におられ」は、直訳すると、そばに住む(留まる)μένω(menō)となっています。また、「あなた方の内におられる」という箇所はギリシャ語では未来形になっているので、「(未来において)あなた方の内におられるでしょう」という訳が最適です。この時、弟子たちの中に聖霊は住んで(留まって)いませんでした。十字架の御業がまだ完成されていなかったからです。約束の聖霊は、その後に来るという事だったからす。

 使徒の働き 1:4-5「使徒たちと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

 ヨハネは水でバプテスマを授けたのに対し、聖霊によるバプテスマを授けられるお方はイエスです。ここから明らかなように、水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマは別だという事です。

 使徒の働き 1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」

 弟子たちはこのイエスの約束の通り聖霊を受けて、力を受けました。このる力は聖霊のバプテスマを通してのものです。

 使徒の働き 8:14-17「エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所に遣わした。
二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らの内の誰にも下っていなかったからであった。そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」

 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていたのですが、彼らの内の誰にも下っていなかったので、ペテロとヨハネは彼らが聖霊を受けるように祈り、彼らは聖霊を受けました。

 使徒の働き 19:1-2「アポロがコリントにいた時の事であった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。彼らに「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いた事もありません」と答えた。「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」

 この箇所からも分かるように、ヨハネのバプテスマ(水の洗礼)を受けていても、聖霊のバプテスマはまだ受けていないという事があります。ある教派では、水のバプテスマを受ける時に、自動的に聖霊のバプテスマを受けていると教えたりしますが、使徒たちはそのように考えてはいませんでした。パウロはヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」であるとし、聖霊を受ける為のバプテスマとは区別しています。この聖霊を受けるバプテスマとは、厳密には、聖霊に満たされるというバプテスマの事です。これは、バプテスマのヨハネ自身が言ったもので、彼のバプテスマとは違って、イエスは聖霊と火とでバプテスマを授けると言いました。

 聖霊のバプテスマはイエスによるものであり、それを通して力を受けるようにとのイエスの命令です。従わないでもいいような、軽い助言ではありませんでした。イエス自身、御国の福音を語る前に、水のバプテスマをヨハネから受けました。その個所を引用して、私たちもイエスを模範として水のバプテスマの大切さを説く事があります。水のバプテスマそのもの(儀式)に力はありませんが、それを無視して良いという事でもありません。水のバプテスマの形式にこだわって、律法主義になるのも問題ですが、素直に水のバプテスマを信じる事は聖書的であり、全く健全なのです。使徒たちもそのようにしていました。

 水によるバプテスマと同様に、聖霊のバプテスマも必要だと見る方が聖書的です。聖霊のバプテスマは必要ないとしたり、軽んじて、水のバプテスマと同等とする事も問題です。これら二つのバプテスマは同じではなく、違う種類のものです。

 エペソ 4:5「あなた方が召された、その召しの望みが一つであったのと同じ様に、体は一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」

 この箇所を誤解して、バプテスマは一種類しかないと考える人もいます。しかし、ここでパウロが言っているバプテスマとは、信者は誰でも共通した召しにあずかっていおり、キリストの体につくという、唯一のバプテスマの事を指して言っているのです。すなわち、イエスを信じて、キリストの体に繋がるバプテスマは一つしかないと言っているのであり、いわゆる救いに関するバプテスマの事です。

> ヘブル 6:2「きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。」

 「きよめ」の部分はギリシャ語の聖書にはなく、「洗い」はバプテスマと同じ語が用いられています。モーセの律法では「洗い」の訳がより適切ですが、この同じ語が新約聖書で用いられているケースでは、いわゆるバプテスマとして使われています。そしてこの単語は複数形になっています。つまり、この聖句には「複数のバプテスマの教え」と書かれているのです。この事から、バプテスマには複数ある事が分かります。

 使徒の働き 1:4-5「使徒たちと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

 このイエスの言葉からも明らかなように、ヨハネの水によるバプテスマと聖霊のバプテスマは異なるものです。

 ルカ 3:3「ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」

 ヨハネの水によるバプテスマは、「悔い改めのバプテスマ」だとルカは書いていますし、パウロもそう呼びました(使徒 19:4)。

 ローマ 6:3「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」

 キリスト・イエスにつくバプテスマとは、イエスの死にあずかるバプテスマの事であり、イエスの死と同じ様に、私たちの古い人も死んだと見なす事であるとパウロは言っているのです。その他にも、「死者の為のバプテスマ」、「モーセにつくバプテスマ」などもあります。しかしそれらは、バプテスマという儀式とは違って、考え方や見方などのものです。

 これらの異なるバプテスマが何を意味しているかを学ぶ事が基礎的な事であって、異なるバプテスマという儀式を受けなければいけない、というものではありません。唯一の儀式として人が行う水のバプテスマでも、その背後には新生の真理がある事、そしてその真理に基づいて行うのなら、それは信仰の行いになるのであり、儀式にはなりません。こうした理解を得るには、バプテスマという基礎の教えを学ばなくてはいけません。

 バプテスマの意味についての記事も併せて読むと分かりますが、バプテスマという意味は「浸る」という動作を表すので、「聖霊のバプテスマ」は当然、「聖霊に浸る」事になり、それは常に浸かっている、それゆえに、御霊に満たされている事を意味するのです。私たちは、常に聖霊の中に浸っている状態であるべきだというのが聖書の教えです。聖霊のバプテスマを一回だけの「重要な霊的イベント」と考えるのではなく、「常に浸かっている」事として考えるべきなのです。それが、聖霊のバプテスマの本当の意味であり、別の言葉で言えば、御霊によって歩む事なのです。