教会の定義 2

エクレシアの機能

 呼び出された人たち(エクレシア)が、その目的をしっかりと理解してい集会をもつなら、そこには様々な役割の調和が見られます。ローマ12章や、第一コリント人への手紙12章に書いてある通りです。集合体としてのクリスチャンは、キリストという一つの体であり、それぞれの役割はキリストの体の各部分(私たち)であって、ユニークな仕事があります。

 第一コリント人 12:27「あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。」

 クリスチャンにはそれぞれ違う役割があるので、ある一つの集会(呼ばれた人たちが主役の集い)において、全員が使徒の役割をこなす必要がありません。皆が預言の役割をするリーダーとなる必要もありません。

 第一コリント 12:29「皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。全てが力あるわざでしょうか。」

 ここで注意したい点は、パウロは、人はそれぞれ決まった一つの役割の為に、その役割以外の事はできないと言っているわけではないという事です。パウロは、皆が一つの役割をする事はないと言っているだけです。お互いが助け合う事ができるように、バランスよくそれぞれが各自の役割を果たしなさいと言っているのです。霊的に成長して、大人の考えによって歩めば、誰でもどのような役割でもこなせる事ができるのです。しかし、あくまでも、お互いを支え合うようにしなさいというのがパウロの教えです。いわゆる五職というリーダーの役割は、責任のある人たちに限定されます。しかし、それは、神の絶対的な選択によるとは限りません。責任を取れる人であるなら、その人が選ばれ、自ら率先してリーダー的な役割に従事する事もできます。

 第一テモテ 3: 1「次の言葉は真実です。「もし誰かが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求める事である。」

まとめ

 今日、間違った定義で使われている「教会」という語は、ローマ・カトリックからの強い影響によるものです。残念ながら、ルターによる宗教改革の時に全ての宗教的、律法主義的なものは改革されなかったのです。

 ですから、現代のプロテスタントの教会の中でも、「一般信徒」は聖職者のパフォーマンスを受け身的に観察するようになっています。聖職者以外は聖書の解説はできない、専門家に教えてもらわらないと聖書は理解できない、素人はただ座って聞くだけ、というような事すら刷り込れてしまったのです。しかし、ルターが聖書をラテン語から翻訳した努力が、無駄になって良いはずがありません。私たちは、一人一人が聖書をよく読んで理解する責任があります。

 教派を超えて共通しているものと言えば、人間的な組織として機能している教会は、どこでも似たようなスキャンダルが起きているという悲しい事実でしょう。これには他の色々な原因もあるのですが、人間的な考えで運営されている事が、大きな原因の一つなのです。何故なら、肉による組織は、聖書の意味しているキリストの体(エクレシア)としての機能を果せないからです。イエスによって呼ばれた者たち(エクレシア)が目的を持って集う所に、キリストの体の機能が見られ、各信者は成長を遂げます。彼らに対して権威を持っているのは、かしらであるキリストです。

 イエスは、私たちを福音の為に外に出るように呼びました。ですから、エクレシア(外へ呼ばれた人々)は私たちであって、キリストの体(エクレシア=私たち)はお互いを助ける為に存在しています。信者一人一人がエクレシアであり、信者の集合体として表現される「キリストの体」もエクレシアです。ちょうど、家族を構成する一人一人がエクレシアであり、神の一つの家族もエクレシアであるという見方と同じです。事実、私たちの国籍は天にあるので、神の家族なのです。

 この理解を土台にして、私たちはお互いを励まし合い、助け合う為に集まるのです。集会の為に、私たちが犠牲になるのではありません。何かの霊的イベントを盛り上げる為に、私たちが奉仕するのではありません。リーダーも同様に、集会の成功を収める為に、そこに集う人たちを励ますべきではありません。リーダーは自らを含む「呼ばれた人たち(エクレシア)」に仕えて、彼ら(聖徒たち)を整えて奉仕の働きをさせ(各自がお互いを助け合うようにさせ)、彼らの成長を促すのです。

 聖書のエクレシア(教会)の場合、私たちを呼んだのはイエスであり、イエスが私たちに目的を与えています。ですから、呼ばれた私たちが集まる時には、明確な目的や機能がなければいけません。それは、第一に、私たちの成長です。そして、第二に、信者が一致して敵と戦う事です。

 マタイの福音書 16:18「そこで、私もあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩の上に、私の教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つ事はできません。」

 イエスに呼び出された信者たちが、イエスの名によって集まるなら、ハデスの門もキリストの体(エクレシア)に打ち勝てません。 私たちは、敵との戦いの為に、一致して集まるべきでもあるのです。