御言葉から真理を得る 1

 真の信仰は真の神に対するものである以上、私たちは聖書から神に関する真理を知る必要があります。御言葉を聞かないのなら、神に対する信仰もありません。

 ローマ 10:17「ですから、信仰は聞く事から始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。」

 聖書の真理が分かれば、そのままそれが信仰となる事では必ずしもないのですが、基本的に御言葉を理解する分だけ信仰が働くという関係は見逃せません。例えば、癒しに関する聖書の知識がないなら、癒しに対しての信仰は働かないのです。

 しかし、もし私たちが御言葉を正しく理解しているのなら、後は信じるという選択をするだけで、全ての祝福を体験する事ができます。ただし、悪魔の誘惑やその他の悪い影響がこの世に存在している為に、御言葉を信じる事がクリスチャンの中でも困難なケースがあります。実際に、福音を聞く全ての未信者の人々がキリストを信じるわけではないのと同じです。しかし、本来ならば神の力ある御言葉を聞いた人なら、信じる事ができるようになっているのです。

 第一コリント 1:18「十字架の言葉は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

 この聖書の箇所では、十字架の言葉を信じて救いを受ける人にとっては神の力だとパウロを言っています。ここで気づくべき事は、神の力は人が信じるかどうかによってその効果が現れるという事です。百人隊長が信じたイエスの言葉には力があったのですが、彼自身がそれを信じたので彼のしもべは癒されたのです。

 実は、聖書の正しい知識を得るという事は難しくありません。しかし、人の伝統として教えられているものは、人の中に疑いをもたらします。現代では間違った教えが蔓延っている為に、多くのクリスチャンが真理にたどり着けていません。今の世は偽りの教えがあまりにも多いので、真理にたどり着く人は少ないものです。

 ヨハネ 1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 イエスによって恵みとまこと(真理)が実現しました。

ヨハネ 14:6「イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、誰も父のみもとに行く事はできません。」

 イエス自身も「私が道であり、真理であり、命なのです」と言われました。ですから、真理を知る鍵はイエスにあります。別の言葉で言うなら、イエスの教えに沿った御言葉を優先的に学ぶ事によって、真理を知る事になるという事です。イエスの教えにあまり関係のないものを聖書から勉強するなら、より真理に遠いものを学んでいる事になります。

 究極的に、人が真理を知るには、イエスを受け入れるしか方法がありません。何故なら、イエスを信じて人は聖霊を受け取り、その御霊が全ての真理に導くからです。その上で聖書を読み、真理を理解する必要があります。幸いにも、クリスチャンは既にイエスを信じているので、聖書を読めば真理を理解できるという段階にいます。未信者の場合だと、霊が新しく生まれ変わっていないので、聖霊がうちに住んでいない状態、つまり、聖霊が真理に導く事ができない状態にあります。ですから、彼らの場合は、イエスをまず信じなくては真理を知る事にはならないのです。

 第一ヨハネ 2:20「あなた方には聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。」

 第一ヨハネ 2:27「しかし、あなた方の内には、御子から受けた注ぎの油が留まっているので、誰かに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、全てについてあなた方に教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなた方は教えられた通り、御子の内に留まりなさい。」

 私たちのうちに留まっている注ぎの油は聖霊です。聖霊が私たちを全ての真理へと導くので、私たちは真理を知る事ができるのです。しかし、そういった状況で多くのクリスチャンが未だに真理を見出していないのは、先程も言った、人の伝統の教え、つまり、間違った教えが存在しているからです。それに加え、世の知恵や知識も真理から遠ざけるものです。何故なら、それらは聖書とは逆の事を教えているものが多いからです。ですから、聖書の学びと平行して、聖書の教えに反するものを私たちの思考から排除する作業が必要になります。そうした否定的な考えを一新せずに聖書を読むと、真理を悟る事が遅くなります。

 また、聖書を読む時に御霊が私たちを導く事を信じないのなら、真理を知る事は難しいと言えます。何故なら、その不信仰の故に、聖霊が聖書の真理を教えている事に気づかない事があるからです。自分で聖書を読んでも分からない、神から特別な啓示を受けないと真理が分からないというのは人間的な考え方です。一部の人々は、「聖書を読む事よりも、聖霊から啓示を受けるのが大事」などと極端に教えたりしますが、基本的にそそぎの油である聖霊は私たちに真理を示す働きをして下さっているのです。

 聖書が理解できたなら、後は行動に移すだけです。実行に移すのが難しいと思うのなら、実行に移すのが当たり前になるほど御言葉で考えを一新する必要があります。知識だけを頭の中に蓄える事だけでなく、自然と実行してみたいという思うようになるまで、御言葉を思い巡せるなら、やがて心で信じるようになります。

 クリスチャンは、幾つかの原因があって、理を悟れません。一つには、間違った教えが真理を悟る事の障害となっている場合があります。偏見や聖書的でない知識を排除して、聖書を学ばないのなら、真理を知る事にはなりません。間違ったものを信じていても、意味がありません。本来はそそぎの油である聖霊が私たちを導く事によって、私たちは真理を知る事ができるのですが、諸々の間違った教えは、私たちの聖書に対する考え方や理解に混乱をもたらす事が可能なのです。

 マタイ 6:24「誰も二人の主人に仕える事はできません。一方を憎んで他方を愛する事になるか、一方を重んじて他方を軽んじる事になります。あなた方は神と富とに仕える事はできません。」

 相反する二つに従う事はできません。神と富、或いは、聖書の真理と世に仕える事は不可能です。世的なものは全て無駄なものとは言いませんが、聖書に反するものは排除するべきです。また、日曜日に教会にいる時だけ正しい考えを持ったとしても、残りの六日は世的な考えで生活をしていれば、信仰によって歩む事ができないのはむしろ当然でしょう。神か富か、どちらかに仕える事しかできないという結論の前の節を見て下さい。

 マタイ 6:22-23「体の明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたの内にある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」

 この個所で「目が健全なら」と新改訳聖書で訳されていますが、ギリシャ語の「シングル」の意味の単語が使われています。複雑になっていない、単純、純粋という意味で「一つのもの」を表します。私たちの目が「シングル」であるなら、全身が明るいとイエスは言われました。「目が悪ければ」は「邪悪」というギリシャ語の単語が使われています。世的な知恵や知識、サタンによる嘘などに目を向けていては、私たちの全身は暗い状態になります。私たちの目を光に向けるのなら、全身を明るい状態にできます。光と闇は同時に存在できないように、二人の主人に仕える事はできません。神に仕えるか、世に仕えるか、どちらか一つ(シングル)しかできません。

御言葉から真理を得る 2に続きます。