油注ぎ 2

 第一歴代誌 16:22「私の油注がれた者たちに触れるな。私の預言者たちに危害を加えるな。」

 この聖句は、詩篇 105:15にもあります。ある預言者たちは自分たちの不利な立場を回避する目的でこれらの箇所を用いる事があります。こうする事で彼ら自身を「神から特別に守られている」事を主張します。第一歴代誌から見ると、この箇所の「油注がれた者たち」はアブラハムとサラの事で、「危害を加えるな」という警告はアビメレクに対してのものです。ダビデはそれを引用して、イスラエルの民を「油注がれた者たち」とし、「危害を加えるな」という警告を他の国の王たちに対して用いました。

 それでもある人たちは、この箇所が現代の「油注がれた」使徒や預言者の事も含むと主張して、彼らを「神の特別扱い」を主張します。

 第二コリント 1:21「私たちをあなた方と一緒にキリストの内に堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」

 「私たちに油をそそがれた方は神です」とパウロは言いました。ですから、新しい契約の下では、クリスチャン皆が「油注がれた」のです。私たちは常に新しい契約を基準にして物事を判断する必要があります。古い契約の視点ではありません。この単純な事が分からないと、私たちが旧約聖書を読む度に、古い契約の視点で考えるようになるでしょう。しかし、私たちの考えは新しくなっているべきです。私たちが旧約聖書を読むとしても、考え方も古い契約に戻る必要はありません。

 歴史をたどれば、ペンテコステ運動が起こる前の時代でも、聖霊の力を「油注ぎ」と呼んでいた人たちが多くいました。ところが、彼らはその言葉の間違いに気づいていませんでした。このちょっとした定義のミステイクが大きな混乱につながってしまったのです。

 最後に、聖霊の力を求める事は良い事です。それは「聖霊のバプテスマ」によって力が与えられるという事であり、イエスも聖霊を受けて力を得るように指示しました。聖霊の力は私たちが「聖霊に浸かる」事によって、力が与えられる事になります。

 エペソ 1:19「又、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神の優れた力が、どれほど偉大なものであるかを、知る事ができますように。」

 「私たち信じる者に働く神の優れた力」とパウロが言っている通り、神の力は私たちの内にあり、「信じる者に働く」のです。神の力が本格的に働くようになるのは「聖霊のバプテスマ」を通してです。「聖霊のバプテスマ」の正しい意味は「聖霊の中に浸かる」事であって、私たちが御霊の中に浸かっている状態であれば、神の力を受ける事になるのです。しかし、御霊の中に時々しか浸っていないなら、神の力を時々だけ受ける事になります。この神の力の事を指して、多くの人々は、「油注ぎ」と言っているのです。従って、油注ぎを求めるのではなく、神の力を求める必要があるという事であり、それは、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)によって受けるという理解が正しいのです。それから、聖霊の満たしは、神に求める事以外に、私たちが御言葉に浸ったり、異言で十分祈る時にも、聖霊に満たされる事も知るべきでしょう。