バプテスマの意味

 「バプテスマ」という言葉は、コイネーギリシャ語の「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」の音訳からできています。これはまた、「βάπτω(baptō)バプト」から来ています。ギリシャ語からラテン語に翻訳する際、この語は音訳になったので、元々のギリシャ語の意味が十分伝わりませんでした。しかし、ラテン語には「浸す」という単語「immergo」が存在していましたので、ギリシャ語の「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」は「immergo」で訳されているべきだったのです。ラテン語から英語に訳したジョン・ウィクリフもそのまま音訳にしています。それがそのまま続いてしまい、英語でも「baptism」となったのです。こうして、この単語は宗教用語となってしまいました。

 本来「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」は宗教的な単語ではありませんでした。例えば、服の汚れを効果的に取り除く為に服をぬるま湯に浸して置く必要があったとすると、この場合、浸たすという動作が「バプテスト」なのです。コイネーギリシャ語で書かれた他の古典や文献から見ても、「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」が宗教的な単語ではない事が分かります。つまり、「バプティーゾ」自体には、何か特別な霊的な意味があるというわけではないのです。

水と切り離す

 今日私たちが「バプテスマ」という単語を聞くと、すぐに水の洗礼式を想像してしまうのですが、当時の人たちからするとその発想はなかったのです。彼らがその語を聞けば「何かに浸す」という理解だけでした。

 マルコ 7:4「市場から戻った時は、体を清めてからでないと食べる事をしなかった。他にも、杯、水差し、銅器や寝台を洗い清める事など、受け継いで堅く守っている事が、たくさんあったのである。」

 「洗い清める」の箇所は「バプティーゾ」の語が用いられているのですが、その訳だと「浸す」という本来の意味は読み取れません。浸礼(洗礼式の一種)で見られる行為がまさに「バプティーゾ」を正しく表しています。「バプティーゾ」は、何かに浸した状態にする事によって変化をもたらす事もあります。さて、洗礼式では人を水に浸すのは僅かな時間だけです。文字通り人をずっと水に浸けておくと、洗礼式はそのまま葬式になってしまいます。教派によれば、水に濡れるだけでも良いとしたりして、「浸る」という本来の定義から離れてしまっていますが、それはバプティーゾをよく理解していない為です。Joseph Henry Thayer(ギリシャ語コンコーダンスと辞書の編集者)による次のコメントを見て下さい。

 「バプティーゾ の意味を示す最も明瞭な例は、およそ200 B.Cに生きていたギリシアの詩人で医師でもあるニカンダーのテキストです。それはピクルスを作る為のレシピでありますが、両方の単語を使用しているので役立にちます。ニカンダーは、ピクルスを作るには、まず野菜を沸騰水に浸して(「βάπτω(baptō)バプト」)から酢溶液でバプテスマ「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」しなければならないと言います。」

オリジナルは、以下です。
 "The clearest example that shows the meaning of baptizo is a text from the Greek poet and physician Nicander, who lived about 200 B.C. It is a recipe for making pickles and is helpful because it uses both words. Nicander says that in order to make a pickle, the vegetable should first be 'dipped' (bapto) into boiling water and then 'baptised' (baptizo) in the vinegar solution."

 上の説明から、「バプト」も「バプティーゾ」も、基本的に「浸す」という意味である事が分かります。しかし、「浸す」という動作は、「一度浸してすぐ引き上げる」という意味ではありません。浸した状態をも示しているのです。従って、「浸けておく」がより正しいのです。聖書が示している様々な真理(キリストの体、赦免、死など)に私たちが浸る時、私たちは浸っている状態であり続けるべきなのです。

 ポイントは、「バプティーゾ」が何かに浸っているという意味である事、短期間だけ「浸す」事ではなく、「浸けておく」が、「バプティーゾ」なのです。さて、水によるバプテスマの儀式では、水に浸かっている人を起こす部分、すなわち「新しい人としての復活」も含まれますので、「古い人を浸けておく」事を洗礼式で完全に再現する事はできません。洗礼式は聖書の真理を形として表す事にしかすぎず、それ自体には霊的な力や恩恵がないのです。ですから洗礼式をしないと「救われない」などという主張は宗教的な考えだと分かります。しかし、この新生の真理は、新しい契約の教えの中でもとても重要なので、それを象徴するバプテスマの儀式は、それを正しく理解して信仰によって行うのなら、聖餐式と同じ様に、恩恵を受ける事ができます。余談ですが、正しい理解と信仰に基づいて、クリスチャンがバプテスマや聖餐式を行う事をサタンはとても恐れています。

 さて、私たちが何に「浸り続ける」かは文脈によってしか、分かりません。聖書ではバプテスマが水を用いてやるものだと書いてありますが、水以外の表現もあります。悔い改め、聖霊によるバプテスマはどうでしょうか?

ペテロによるバプテスマ

 使徒の働き 2:38「そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦して頂く為に、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 新改訳聖書によるこの部分の翻訳は問題があります。「何に浸る」かが全く読み取れません。しかも、罪を赦して頂く為にバプテスマの儀式が必要だという意味に取れてしまう訳も問題です。

「それぞれ罪を赦して頂く為に、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」の部分をギリシャ語で見ると、βαπτισθητω(浸されなさい*アオリスト)εκαστος υμων(一人一人が)επι(前置詞 on)τω(定冠詞 the)ονοματι(名)ιησου χριστου(イエス・キリスト) εις(前置詞 into)αφεσιν(免除)αμαρτιων(罪*複数)

 前置詞を翻訳に含めて訳すると、「罪の赦しの中へ浸されなさい」という意味になります。つまり、ペテロはイエス・キリストの名によって水の洗礼式を受けなさいと言っているのではなく、悔い改めて(考えを変えて)、イエス・キリストの名によって「罪の赦しの中へ浸りなさい」と言っているのです。

 ペテロはユダヤ人たちに、「律法主義から考えを変えて、キリストの十字架の御業を受け入れて、既に十字架によって赦されているという真理の中へ浸りなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と言ったのです。罪を赦して頂く為に水の洗礼式を受けなさいではありません。そうなると、その儀式に罪の赦しの力がある事になります。罪の赦しの力はイエスの血にあるのであって、洗礼式自体にはありません。

 私たちは今現在も「罪の赦しの中へ浸っている」べきです。その恵みの外から出てしまうと、罪の赦しを退けてしまう事になり、それは私たちを罪意識にしてしまうでしょう。「罪の赦しの中へ浸っている」というのは、洗礼式そのものにこだわるという事ではなく、あなたが考えを変えた時から継続的に、罪の赦しの恵みに浸っている状態を意味するものであり、これが本来のバプテスマという意味なのです。キリストの罪の赦しを信じて、継続してその恵みを信じているかどうかです。ですから、「浸かっている」という表現が意味するのは「信じ続けている」という事なのです。

儀式か信仰か

 イエス様は十字架によって既にあなたの罪を赦されたのか、そしてその真理を受け入れるには、水による洗礼が必要かどうかを吟味すると良いでしょう。水の洗礼を律法のように捉えてしまうと、私たちは再び律法の奴隷になってしまいます。実は、使徒の働き 2:38 には水という単語すらありません。もちろん、水のバプテスマを無視して良いという事でもありません。水のバプテスマは信仰を外に表すという一つの方法であり、それを新生したばかりの人が実践するという意味では価値あるものです。又、「水」は単に「浸る」動作を目で見る為に利用されるだけで、水自体が私たちを罪から清めるような意味はありません。ですから、洗礼式は究極的には必要不可欠ではありませんが、きちんとした理解と信仰を持って行うならそれはとても意義あるものになります。結局、信仰によるかどうかがいつでも鍵になるのです。

 信仰によって行う事の大切さは、聖書を読む時にも、祈る時にも、施しをする時にも、聖餐式にあずかる時も、その他のあらゆる場面でも同じです。「信仰なしにただ行う」という単なる儀式や宗教にしてしまうか、信仰によって行い、その背後にある真理から恵みを受けるかは、いつでも私たち次第です。今日の教会で教えている多くのものは、信仰と全く結びつけずに、ただ機械的に行うだけの儀式です。本来の意味を知らずにただ規律を守る事ばかりに執着していると、パリサイ人の律法主義に戻ってしまうでしょう。

聖霊のバプテスマ

 水のバプテスマとは違って聖霊のバプテスマはどうでしょうか?それは、イエスと使徒たちによって、積極的に求めるように言われています。もちろん、「救われているかどうか」という問題にだけこだわるなら、聖霊のバプテスマは必要ではないでしょう。ちょうど、救われて天国に行けるから癒しの為の祈り、経済的な祝福、その他の神からの祝福は全く必要ないという「変なこだわり」を持つのと同じです。クリスチャンであるなら、救われているかどうかは、もはや問題にならないはずです。神の子となった私たちが御国に入る事は当然の特権なのです。しかし、救いをゴールにして、それだけで満足してしまい、キリストの身丈にまで成長する事を求めないのは幼い考え方です。私たちはそのような初歩の教えから卒業して、神の力を得て他の人を助け、もっと積極的に伝道できるように、私たち自身が成長する事を目標にするべきです。