五役者とは

 Five Fold Ministryと呼ばれるているものがあります。日本では「五役者」と言います。一部のカリスマ派や聖霊派では、それは神に選ばれた「油注がれた者」で、この五人が教会の形成に必要だと教えられています。五役者(或いは、より正確には四役者)の回復運動は「後の雨運動」から注目され始めたのですが、90年代になってピーター・ワグナーによって再び強調されました。彼は、五役者は、イエスから直接任命された「油注がれた器」として、霊的エリートのように考えていました。

 エペソ 4:11「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師、又、教師としてお立てになりました。」

 ピーター・ワグナーは、五つの役割という見方をせず、霊的エリートの五人として見た為に、彼らの権威などを必要以上に主張しました。これらのリーダーがいないと、真の教会形成はできないとしました。そして、エペソ 2:20 を用いて使徒と預言者が「一番上」のリーダーだとしました。彼は自分たちを使徒や預言者と呼び、アメリカで顕著な活躍をしている人々を中心に、彼らの考えを推し進めました。彼らの中には、後に同性愛者である事が発覚した人がおり、教会全体にも大きな反響が起こりました。

 エペソ 4:11でパウロが強調しているのは、教会におけるリーダーの「役割」であって、これらのリーダーの権威やランキングではありません。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師は、軍隊の階級のようなタイトルではありません。一般に、それらのタイトルが、その人たちのアイデンティティーを表しているとして誤解されていますが、この聖句はそのような事を説明しているわけではありません。又、「お立てになりました」という動詞はギリシャ語の「与える」から訳したものであり、「任命」のニュアンスがあるわけではありません。

 「ある人たちを」と新改訳で訳されている箇所が四つありますが、ギリシャ語では定冠詞の the が用いられているだけで、イエスが「ある人たち」を宿命的に選び、「五役者」のポジションに配置しているという意味を含んでいるわけではありません。ですから、これら五人は教会の絶対的な存在ではなく、あくまでも適任の人々として、教会で活躍する役割について語っているのです。

 確かに、これらの役割をする人々は、リーダーとしての存在とは言えます。責任が伴いますし、権威もあります。しかし、彼らは高いランクに位置するエリートなどではありません。責任を持てるリーダーがそうした仕事をこなすという事だけです。ですから、使徒の働きをしている人のアイデンティティーは使徒ではなく、使徒の働きをしているクリスチャン、神の子なのです。実際、ある人たちは複数の役割をこなす事もあるので、それらは称号として見るべきではなく、奉仕の働きとして見るべきです。

 何か小さな仕事をしている人たちに、何かのタイトルをつけて呼ぶ事はしません。同じ事が、教会のリーダーたちにも当てはまるのです。預言者だからという事で、預言者と呼ぶ必要はなく、預言に関する、リーダー的な働きをしているだけの事です。全てのクリスチャンのアイデンティティーは神の子であって、五役者のタイトルにはならないのです。

 こうした誤解に、これらのリーダーを「油注がれた者」という旧約聖書的な考えが加えられた事によって、人に栄光を与えるような考えが、一部の教会で見られるようになりました。ですから、五役者の役割とそれらに従事する事は聖書的なのですが、「使徒と預言者の回復運動」においては、特に使徒と預言者の権威を主張する所で、聖書が意味するものから離れていったのです。私たちは、天においても、地においても、イエスだけが権威を持っている事をまず理解し、その権威をリーダーたちが使う時には、教会の土台としての立場で使うのであって、それは聖徒をに仕え、下から支える働きを意味する事を知らなければなりません。

 パウロによれば、教会のリーダーたちは、使徒(送られた者)、預言者(先について語る者)、伝道者(知らせる者)、牧師(牧する者)、教師(教える者)の役割を果たすべきだという事であり、神から特別扱いされている、油注がれたエリートではないという事です。つまり、リーダーとして責任を持てる人、その役割をこなす人であれば、誰でも使徒の働き、或いは、その他の働きに従事する事が可能なのです。神が特別に選んだ人たちを神格化して見る必要はありません。そうするなら、そうしたリーダーたちが失敗した時には、大きな混乱が見られるでしょう。神にそれらの仕事を任されたリーダーたちは、そこまで特別な存在ではありません。主は、彼らのする事に対して責任を負わせていますが、彼らの権威は、「一般信徒」を支配する為に与えているわけではありませんし、聖書にはない「聖霊の新しい啓示」を主張できるような権威でもありません。私たちが知るべき全ての真理は、既に使徒たちの手紙に書かれてあります。

 第一テモテ 3:1では「監督」、テトス 1:5 では「長老」の任命についてパウロは書いてあります。違う言葉ですが、リーダー的な役割である事は間違いありません。実際、これらの役割をする人たちは、「牧師」と同じ働きをしていました。「牧師」とは違う言葉でありながら、同じ意味としてパウロが用いていたのは、それらの呼び方でも良かったという事であり、牧師という絶対的な存在ではなかった事を意味します。同じように、「五役者」の称号は、教会の絶対的な存在としてのアイデンティティーではありません。呼び方にこだわる必要はないのです。ポイントは、どんな役割だったとしても、それらは責任の重い役割であるという事だけです。

 基本的に、真に使徒や預言者の働きをする人たちは、彼らが何と呼ばれようと気にしていません。称号にこだわっている人たちは、人々からの称賛を受けたいだけであり、高ぶりの思いを持っているに過ぎません。彼らの働きが本物かどうかは、彼らの実によって見分ける事ができるので、称号にこだわる必要はありません。

 間違った五役者の教えは、五人の絶対的リーダーによる教会作りを教えようとするものですが、それは、人間的な方法で教会を形成しようとする、肉の試みです。彼らは、服従霊的覆いを要求します。しかし、初代教会の時代に使徒たちがしていた事は、全ての信者に対する献身的な奉仕であり、信仰の模範を人々に見せていた事でした。使徒や預言者の称号をちらつかせて、自分たちに従うように教えていたのではありません。彼らは教会のかしらではありません。イエスが教会のかしらです。

 第一テサロニケ 2:7-8「キリストの使徒として権威を主張する事もできましたが、あなた方の間では幼子になりました。私たちは、自分の子供たちを養い育てる母親のように、あなた方をいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身の命まで、喜んであなた方に与えたいと思っています。あなた方が私たちの愛する者となったからです。」

 パウロは、使徒としての権威を主張しませんでした。むしろ、献身的に他の信者に仕え、導いたのです。使徒と預言者は教会の土台なので、彼らは下から人々を支えるのです。この二つの役割は土台という意味では重要ですが、他の働きよりも重要であるという主張はナンセンスです。パウロは、これらの働きが土台となっていると言っただけなのです。

 神はある人々に対して、これらの役割を果たすように命じる事はあります。しかし、だからといって、五役者が特別な神の召しを受けた者と考え、彼らを必要以上に高める必要はないのです。成長すれば誰もがリーダーになれますし、自ら進んで監督として奉仕する事も可能なのです。リーダーは使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という役割を通して教会全体に影響を与える責任の重い仕事をするだけの事です。神から特別な召しを受け、一般信徒を支配する大きな権威を持つ者ではありません。