新しいアイデンティティー 3

 へブル 10:11「さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去る事ができませんが、」

 動物のいけにえは、罪を取り除く事ができなかったのですが、イエスの贖いは、罪を取り除く事ができました。アウグスティヌスが言う「原罪」はイエスの愛に対して限界を設定しています。十字架の恵みの御業を過少評価しているのです。彼はギリシャ語をあまり知らなかった事から、哲学に頼って聖書を解釈したのかもしれません。しかし、彼の原罪の教えは主の十字架の御業を無にしてしまう、人間的な解釈に過ぎず、真理ではないのです。少なくとも、キリストの御業を信じる私たちは、罪が除き去られたという真理が適応されます。何故なら、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者、新しく創造された者だからです。これが意味する事は、私たちの霊の中には罪がないという事です

 さて、別の角度から人のアイデンティティーについて聖書から見ます。

 箴言 23:6-7「物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに「食え、飲め」と言っても、その心はあなたと共にない。」

 物惜しみする人が「食え、飲め」と言っても、彼の心は勘定ずくなので、その心はあなたと共にありません。何故なら、物惜しみする人は、気前よく「食え、飲め」とは言わないのです。つまり、人というのは結局のところ、その心の部分がその人の本質であるという事を言いたいのです。口先だけの言葉ではなく、その人のアイデンティティーはその人の心にあるという事です。箴言ではこの「心」という語をほぼ全ての章で見る事ができる大変ユニークな書物です。下の箇所もそうです。

  箴言 4:23「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。命の泉はこれから湧く。」

 似たような事をイエスも言われました。

 ルカによる福音書  6:45「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」

 このたとえを用いて、イエスは人を見分ける秘訣を教えました。ここでも人の本質はその人の「心」にあるというのがポイントです。箴言で頻繁に出る「心」と訳されているギリシャ語(kardia)は「人の本質」「人間の中心的な部分」という意味を含みます。ヘブル語では「レーヴ」(לֵב)です。

  一般的に理解されている感情的なニュアンスを含みがちな「心」の表現(心温まるなどの表現)よりも、kardia は、むしろ頭で考える部分も含みます。つまり、人の本質(中心)に関わる部分がその人の思考にあるということです。ただしこれは、一般的な考えの意味の(nous)ではありません。その人自身(本質)、或いは、その人の中心的な思考、つまり、人の霊です。聖書で、心と霊が殆ど同じものとして扱われている箇所が幾つかあるように、これらは非常に近いです。何故なら、両方とも人の本質を表すからです。

 例えば、明るい人でも悲しいという感情や考えを持つ事はあります。ところが、明るい人の中心的な思考は、常にポジティブな考えばかりです。一つの考えがその人の本質を定義するのではなく、その人の中心的な思考がその人を定義します。つまり、アイデンティティーを形成している思考が「心」とも言え、パウロはそれを、思考の霊とも表現しました(エペソ 4:23)。

 そういうわけで、人のアイデンティティーはその人の中心的な考え(霊、心)に基づいています。罪の性質や原罪と呼ばれるもの、或いは、アダムの違反が人に入り込んだ時から、人は「古い人」として歩め事が可能になりました。しかし、だからといって、人のする事全てが悪になったわけではありません。悪魔の性質を持つ事になり、それゆえ、イエスの贖いによる救いが必要になったとはいえ、全ての人が常に悪い事ばかりをしてしまう事にはなりませんでした。

 罪の奴隷であるとパウロは言いましたが、奴隷はその身分を喜んではいません。自身が奴隷であるという束縛を認識しています。それから解放されたいと知っているのです。一般の人が自分自身の罪についてよく考えるなら、その悪を認め、束縛から解放されたいと望みます。罪の性質であれ、肉の思いであれ、人を悪い方向へ誘惑するものが私たちのうちにあったとしても、それゆえに、罪の奴隷になったとしても、どこかで、その悪を嫌い、それから解放されたいと望む、本来の人の霊や心の機能は存在しています。それを知るだけでも、私たちは創造主の存在を知る事になるのです。

 人が罪を犯す時、人の弱さにつけ込む者、誘惑する者がいます。それが悪魔です。しかし悪魔も、人の肉の弱さ、肉の思い、或いは、それを罪の性質や原罪と呼んだとしても、それらを利用し、人が悪をするように同意させなければなりません。つまり、悪魔でさえ、人を完全にコントロールできないのです。未信者も信者も、人には自由意志があり、それを働かせる事によって、罪を犯すのです。従って、人がどんなに罪を犯してしまうという弱さがあったとしても、それ自体が人間を操り人形のようにコントロールしているわけではないのです。カルヴァン主義でいう、「全的堕落」という考えは誤りで、人には自由意志があります。実際、どの時代でも、人は神と共に歩める事、信仰による義があった事が聖書から読み取れます。恵みの時代から、信仰を通して義と認められるようになったのではないのです。

 ある意味、人の自由意志が最も強いものと言えます。それによって、人は神さえも退ける事が可能だからです。しかし、イエスの愛に触れられるなら、人はそれを喜んで受け取るでしょう。福音の素晴らしさを知った時、人は自由にその愛を求めるようになるのです。何故なら、福音の真理の言葉には、私たちを自由にする力があるからです。そして幸いな事に、私たちクリスチャンは「古いもの全て」が過ぎ去っている状態に留まる事が可能になりました。それは、新しい人として歩む、御霊によって歩むという意味です。その歩みを始めたばかりの人は、油断して罪を犯してしまう事がよくありますが、そうだからといって、神の子としてのアイデンティティーは失いません。何故なら、御父は、イエスを通して私たちを見て下さるからです。イエスを信じ続ける者の罪は、イエスが代価を払ったものとしてみなされ、私たちはその罪の刑罰から免れています。もちろん、そうして自由になったがゆえに、私たちは義の道を歩まなければいけません。

 思考が、まだ完全に一新されていない私たちにとっては、義の為に生きる事が不可能のように見えるかもしれませんが、私たちは、そのようにして歩める事のできる新しい人となっているのです。実際、クリスチャンは自由になっています。ですから、イエスを模範として、神の子として歩み始めるか、それとも肉の思いに影響されて、再び古い人(罪の奴隷)として歩むかは、私たち次第なのです。