自由意志と信仰

 ある人々は言います。「人の信仰ではなく、神の信仰によって奇跡は起こるのだ。」これは、人間の信仰と神の信仰を比較させているもので、何となく正しいように聞こえますが、この種の考えは「神の信仰を得る」事が焦点になりがちです。そこから、誤解を招くものがありますが、その一つが、「自分に信仰がないのは、神の信仰を持ってないからだ」という考えであり、そこから、「自分に信仰がないのは、神が私に神の信仰を与えていないからだ」となるものです。

 神から神の信仰をもらえれば、それによって信じる事ができるという考えは聖書的でしょうか?もしそうだとすると、自分は神の信仰を持っていないと考える人たちは、自然とその為に祈り求めるようになるでしょう。同時に、何故自分には神の信仰を与えられていないのかという疑問も生じてきます。与えられていないのは、必死に求めていないからだと思い、ますます神の信仰を求めて祈る人もいるでしょう。

 「神から信仰を与えられたので、自分は信じる事ができる。私が信じる事ができるのは、神が私に信じる力を与えて下さった」などの説教を聞くと、多くの人は同意するかもしれません。しかし、この表現にはある誤解がされがちなものが含まれています。何故なら、神が私たちに信仰を促す事はあっても、最終的に信じるのは私たちの決意にかかっているからです。もし、神が私たちに「神の信仰」という信じる力を与えて下さり、それだけで、私たちが神を信じる事になったのなら、私たちは信じるようにさせられたという事になってしまいます。つまり、私たちの意思に関わりなく、信じる事のできる力が与えられるという見方です。

 少し言い方を変えましょう。仮に、「信じさせて下さい!」という私たちの祈りに神が答えて下さるとすると、それが信仰を得る秘訣になります。そうすると、信仰を獲得する前に、信仰を求める祈りが先に来る事になります。しかしそうなると、その祈りなしでは何も信じる事はできないという事になるのでしょうか?

 未信者のケースでこれを考えてみましょう。彼らはそもそも神に祈り求める事をしません。それなのに、未信者が神を信じる事ができないのは、神から信仰を与えられていないからだとしまうとややこしくなります。未信者に神の信仰が与えられるのは、彼らが信じる前に彼らが信仰を祈り求めたからなのか、という事になります。私たちは、その疑問の迷宮に入らないようにしたいものです。

 私たちはどのようにしてイエス・キリストを信じるようになったのか思い出してみて下さい。信仰は非常に単純な事です。神から信仰を与えられたから信じる事ができるようになったというよりも、私たちが私たちに与えられている自由意志によって最終的に決断した(信じた)というのが大部分なのです。神が私たちの自由意志に反して、何かをなさる事はありません。ただし神は、私たちが信じる事ができるように、様々な方法で助けて下さいます。その第一の方法が、御言葉です。

 エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

この聖句中の「それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です」という文の主語である代名詞、「それは」が「信仰」を指していると勘違いしてしまうと、救われる際にイエスを信じる事ができたのは、神がその信仰を与えて下さったからという解釈になりかねません。正しくは、恵みが神からの賜物なのです。

 信仰という語が掴みどころのない概念として捉えられている為に、このような解釈が生じてしまうのですが、まず私たちが知っておかなければいけないのは、信じるのは他でもない私たちであるという事です。「誰が何を信じるか」をよく理解していないと、「信じる事のできる能力が神から与えられるなければならない」などの教えを聞いた時に、そういった可能性もあるのではないかと考えてしまうでしょう。そうなれば、信仰についての真理が分からなくなってしまいます。主を信じるというのは、神の恵みに対する私たちの正しい応答です。主が私たちに期待しているのは私たちが自由に主を信じ、主の御言葉を信じるという事なのです。信仰がなくては神に喜ばれませんとパウロは言っています。もし、神が私たちを信じるように操作しておられるのなら、それを神が喜ぶでしょうか?信仰というのは、私たちの自由意思で選択する行為なのです。ですから、神様が私たちに信じる事ができる力を与えて下さるという考えは的外れなのです。

 私たちに与えられているのはむしろ自由意志です。それがあるからこそ、人は御言葉を聞いて信じたり、或いは、御言葉を聞いても疑ったり、拒んだりしたりするのです。神の力が私たちに信じさせているのではないのです。信じるとは、神によって信じるように促され、私たちが与えられている自由意思によって決断する事なのです。ローマ 12:3 では、恵みの現れ(御霊の賜物)を通して各自がキリストの体として、信仰に応じてその役割を果たすという事が書かれていますが、この場合でも、信仰を働かすのは自由意志を持つ私たちなのです。神が与えるのは、そうした恵みの現れ(御霊の賜物)に対する信仰でありますが、それでも、私たちが拒否する事も可能なのです。

 主との交わりが愛に基づいているのは、自由意志によって私たちが主を信じるからなのです。私たちがロボットのように扱われているのなら、どうしてそのような関係が愛と言えるのでしょう。親と子の関係を見ればすぐに理解できるはずです。親は子を自由にしてやりたいと望み、子が自由に生きて行くのを喜ぶのです。どの親でも、ただ言う事を言われて従うだけの子供ではなく、自ら判断して良い行いをするのを見る時に、その子供を誇らしく思う事でしょう。父なる神もそのように私たちを見ておられるのです。