信仰とは

 へブル 11:1「さて、信仰は、望んでいる事を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 ギリシャ語から読むと、

estin(である is)de(接続詞)pistis(信仰)elpizomenon(期待する・望む・信頼する)hupostasis(理解・自信)pragmaton(事柄)elegchos(確信)ou(~ない否定) blepomenon(見る)

 直訳すれば、「信仰(pistis)とは、自信のある事・理解している事(hupostasis)を(今現在)期待・切望・信頼している事 (elpizomenon)であり、見えていないけれども確信している事」となります。

*hupostasis が理解という意味を含むのは、hypo(~の下)の前置詞があり、histēmi が「立つ・確立させる」という動詞から出来ているからです。直訳なら「下に立つ、~の下に確立させる」ですが、これは英語の Under-Stand(動詞)と同じように、物事を理解するという意味に発展しています。「Under-Stand 下に立つ」が「理解」になるのは、下にあって立つ=土台に関するもの=安定を与えるもの、となり、私たちは、安定しているものについて理解するからです。

 さて、何かをよく知っているなら、或いは、「絶対こうなる」と自信があるものに対しては、もはや望みを置く事はありません。むしろ、現実的な事柄(当たり前に起こる事)として、自信を持って期待します。「こうなるのは当たり前だ」と強い期待を持っている状態というのは、そうなるのを知っているという事です。

 明らかに結果が分かるものに対して、私たちはそうなって欲しいと願う事はありません。もはや希望を置かなくても、当然そうなると理解していますし、その結果を見ずともそうなるんだという確信をもっています。これが信仰の定義です。まだ目に見えていないものでも、見えていると同然に見なせる事が信仰なのです。

 見えないものを信じるというのは、難しいようですが、私たちの周りにたくさん存在してます。例えば、電波は肉眼では見えませんが、その存在は確かなものです。電波が存在している証拠に、電話やラジオといった機械が機能する事によってそれを確認できます。テレビの電波でも同じです。テレビの映像が映らないからといって、やはり電波は存在していないだろう、などと考える人はいないはずです。その場合、「やはり電波の存在などないのだ」と言って、電波の存在を疑ったりせずに、テレビの故障などをまず考えるのが普通ではないでしょうか?つまり、電波は目には見えないのですが、私たちはそれが存在するという強い信仰は持っているのです。

 これと同様に、神は肉眼では見えませんが、現実に存在しておられます。第2列王記の6章に、アラムの王がイスラエルと戦っている時に、彼らの戦略をエリシャが全て知っていたという箇所があります。アラムの王は自分たちの中にスパイがいると考えました。しかし、彼らの戦略が見破られていたのは、エリシャが原因だと知って、エリシャの居場所を突き止めて捕らえようとしました。15節には次のように書いてあります。

第二列王記 6:15「神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。」

 エリシャに仕えていたこの人は、パニック状態になっていたかもしれません。馬と戦車の軍隊がその町を包囲していたのですから、大きな軍隊だったはずです。しかし、16節のエリシャの言葉に注目して下さい。

 第二列王記 6:16「すると彼は、「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだから」と言った。」

 エリシャは、天の軍勢はアラム王の軍隊よりも、遥かに多い事を知っていました。一般の人は、目で見えないものは信じないという傾向があります。五感によって確かめられないものは、信じません。もし、クリスチャンもそのように考えるなら、エリシャのこの言葉も信じられないでしょう。ところが、エリシャは真実を語っていました。

 目に見える世界(五感に基づく現実)だけでなく、見えない世界(霊的領域)が存在しているという事を、クリスチャンである私たちは知るべきです。エリシャは霊の領域を知っていました。17節を見てみましょう。

 第二列王記 6:17「そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにして下さい。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」

 アラム王の率いる軍隊は、神の軍隊が山を取り囲んでいた時にもまだいました。目に見える世界が消えたわけではありません。しかし、霊の領域は現実よりも偉大なのです。しかし、信仰は現実から逃避するような事を意味しているのではありません。むしろ、信仰は、一時的な現実が霊の領域によって支配されるという部分を見ます。つまり、目に見える現実だけが全てではなく、霊の領域を含んで見る事が信仰なのです。

 信仰とは、霊的な領域にある真理を現実化させる聖書的な手段です。最初から存在しないものに対して宣言して、それを現実化させるというものではありません。霊の領域に存在しているものを引き出すのが信仰です。別の言い方をすれば、信仰とは霊の法則上で働くものです。御言葉に沿って働く信仰の法則・原理とも言えます。

 霊の領域を信じていたエリシャは、アラム王の軍隊を目くらにして、イスラエルの王の所に連れて行く事ができました。この時、エリシャは、彼の願いが叶うようにと希望を持っていたのではなく、信仰を持って大胆に宣言したのです。神の軍隊についても、彼の弟子の為に目を開かせたのであって、彼自身は見る必要はありませんでした。信仰によって歩んでいる人は、ただ肉眼で物事を見て判断せず、霊的な領域も見ています。しかしそれは、極端な「霊的主義」による霊の目というものではなく、新約聖書の教えに基づくものです。

 私たちが神の子として歩み、思考を一新させ、純粋にイエスの教えに基づいて色々と考えるのなら、私たちの想像は良い方向に働き、様々な良い行い事を可能にします。イエスは、からし種ほどの信仰でも山を動かす事ができると言いました。神の子として歩む人の信仰は、大きな可能性を秘めているのです。神に不可能なものは一つもないのですが、信じる私たちにもそれが適応されるのです。

 マルコ 9:23「イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんな事でもできるのです。」

 ローマ 10:17「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。」

 信仰とは御言葉と共に働くので、肉の思いによる願いを叶えたいと思ってもそれは不可能です。*この箇所の「言葉」はレーマですが、それは話された神の言葉を聞くので、信仰が生まれるという事だからです。レーマは常に信仰が伴います。「啓示された特別な言葉」という意味ではありません。

 私たちは、「御言葉を通して霊の領域で存在するもの」に対して、信仰を持つのです。ですから、御言葉を知らずには、私たちの信仰は働きません。聖書を曲解したようなケースでも信仰は働きません。何故なら、霊の法則、すなわち信仰の法則によってしか、信仰は働かないからです。ですから、私たちは、最初に御言葉を理解し、真理を悟る必要があります。その上で、信仰を持って御言葉を宣言するなら、私たちはあらゆる霊的祝福を体験する事ができます。信仰によって歩むとは、イエスの教えの通りに歩むという事であり、それは目に見えるものに頼らず、主の教えを信頼して歩むという事です。

 第二コリント 5:7「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」