ヨハネ 9:2-3「弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れる為です。」
「神のわざが現れる」という意味は、盲人が盲目である事ではなく、神の癒しが現れるという事です。実際、この盲人は目が見えるようになり、その癒しは明らかに、神のわざです。
サタンの悪事の裏に、神の許可があるという考えも間違いです。それならば、結局、サタンではなく神から悪が出ている事になります。この間違った考え方で見落としている点は、サタンも自由意志を持つという事、サタンは神の許可を得て動いていないという事実です。サタンは、いちいち神の許可を得て行動しているわけではありません。
イザヤ 5:20「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」
人が病気になったり経済的に困ったりするのは、神からの試練であり、それを経験している人を教えたり、謙遜にさせているという考えは聖書的ではありません。これはまさに悪を善と言っているのです。
ヤコブ 4:7「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。」
私たちは神に従うべきであり、悪魔に対抗するべきです。病気に対して戦うべきです。また、サタンに対して「どうか私たちを苦しめないで下さい」というような発言は、サタンに対抗する姿勢ではありません。サタンに対して聖なる怒りを燃やし、徹底的に戦う事が必要です。悪は神から来ていると信じてしまうなら、誰もサタンと戦いません。それはまさに、サタンの思うつぼです。
神の御心の通りに、全て完全に行われているのは、天においてのみです。そして、私たちは御国が地上にも来るように宣言し、この地上を治める神の子になりました。神は私たちに祝福を与えておられますが、それらは、全て自動的に私たちの生活で現されているわけではありません。私たちは主からの祝福を、信仰によって現実化させる必要があります。
使徒の働き 10:38「それは、ナザレのイエスの事です。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスと共におられたからです。」
神の御心とは、全ての人が癒される事です。イエスは良いわざをなして、全ての者を癒されたのです。私たちの神は、そのようなお方なのです。しかし神は、クリスチャンの信仰を通して力を現したいと望んでおられます。
全ての良いものは私たちのものです。それを信仰によってどんどん実現化させて、この地上を天の御国に変えて行きましょう。恵みの福音とはこれほどまでに良い知らせなのです。ですから、良いものと悪いものを混ぜてしまうような考えは禁物です。私たちは、神の恵みを素直に感謝し、信じて受け取るべきです。
こういった正しい見方をしていれば、私たちの祈りが現実化していきます。しかし、神に対する間違った見方そのものが、信仰の働きを妨げているのです。「神の主権」や「神の性質」に関してしっかり理解して大胆に信仰を持つならば、勝利のクリスチャン生活を経験できます。
最後に、恵みと信仰にはバランスがあります。恵みばかりを強調しすぎて、全ては神がやって下さると考え、何もやらないでよいという教え(ハイパー・グレイス)もあります。神のして下さった事と、私たちのすべき事をしっかりと認識しましょう。恵みは神からのものであり、それに対する正しい応答が私たちの信仰です。そして、恵みと信仰が合わさる時に私たちは神の御業を現す事ができるのです。
ヨハネ 6:29「イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなた方が信じる事、それが神のわざです。」
神は、時には私たちの信仰なしに御業を現す事もあります。しかし、私たちの信仰を通して、大いなるわざを成したいと望んでおられます。もし、神の全ての御業の現れが私たちの信仰と関係がないとするなら、私たちは一切宣教の働きをする必要がありません。もし、私たちの信仰を通して神の御業を見るというのが稀な方法だとしたら、どうして聖書では信仰を持つように教えるのでしょう。しかし主は、私たちが主に信頼する事を期待しておられるのです。