新しいアイデンティティー 1

 私たちのアイデンティティーは、新しく創造された霊であり、それは、古い契約がなくなり、新しい契約にとって変えられた事に関係があります。その事をイエスは、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなさいというたとえで表現されました。

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

 「新しく造られた者」は次の2つの単語で成り立っています。

kaine 新しい
ktisis 創造されたもの

「新しく造られた者」があるのは、まず、古いものが過ぎ去ったからです。新しく造られた者にとって、古いものと共存する事は不可能です。つまり、新しいぶどう酒と古い皮袋の共存ができないという事です。或いは、古い契約が続行中なのに、どうして新しい契約を結ぶ事が可能でしょうか?

 ローマ 7:2 「結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。」

 パウロは「律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけ」だというのを説明する為に、夫婦の関係をたとえに用いました。夫が死んでしまったら、妻は再婚しても姦淫にはならないとパウロは言います。夫のいる妻は、再婚という選択肢を持つ事ができません。それが可能になるには、夫との死別が前提です。それを無視して新しい夫を迎える事はできません。或いは、それを姦淫とみなされてしまいます。

 キリストのうちにあるクリスチャンは全て「新しく造られた者」であり、それは何よりもまず、古いものが全て過ぎ去る(アオリスト形)からです。古いものの中には、古い人も含まれます。古い人は、キリストと共に葬られた人の事であり、罪の奴隷です。そして、罪ゆえに、律法による刑罰を受けるべき古い人は、死ななければなりません。私たちの古い人は、キリストと共に死んだとみなされています。そうする事で、新しい人として復活できるからです。

 ローマ 6:6-7「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。死んだ者は、罪から解放されているのです。」

 6節には罪が二回、7節には一回出ています。これらは全て単数形で表されています。例えば、ガラテヤ5章を参考にして、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興などの罪のうち、どれか一つだけから解放されたという事をパウロは言ったのでしょうか?

 「単数の罪」がアダムの違反 Adam's transgression(これも単数)以外で用いられているケースは、基本的に文脈上で明らかに一人の人の特定の罪を指している時(その場合、文法的に単数とする必要がある時)です。「世の罪を取り除く神の子羊」とバプテスマのヨハネも単数形で「世の罪」と表現していますが、ここも誰かが犯した特定の罪とは考えにくいでしょう。ちなみに7節の「罪から解放された」は(δικαιόω)の動詞が使われているので、「罪から義となり解放された」がより正しい訳です。解放・自由という意味で訳されているのは新約聖書ではここだけなので、「義となった」を入れてより明確にした方が無難な訳になると思います。何故なら語源(dikaios)が「義」を意味するからです。

 「古い人がキリストと共に十字架につけられた」という真理はキリストの十字架によって表されています。それはイエスの復活を通して、私たちが新しく生まれ変わる為に必要な出来事でした。イエスが死ぬ必要があったのは私たちの古い人を葬り去る為です。その古い人は罪と共に死ぬという事になっているです。それは「私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為」なのです。

 ところで、古い人は肉の思いによる古いアイデンティティー、或いは、アダムの罪ゆえのアイデンティティーです。

 第一コリント 15:21-22「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストにあって全ての人が生かされるのです。」

「アダムにあって全ての人が死んでいる」のは死が「一人の人を通して来た」からです。同じ事をパウロはローマ書でも書きました。

 ローマ 5:17「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらの事、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、命にあって支配するようになるのです。」

 「一人の違反により、一人によって死が支配するようになった」のはアダムの違反の事です。彼の罪によって死が全人類を支配するようになったのです。しかし今は、イエスによって、信者は命にあって支配するようになりました。新しいアイデンティティーとして生まれ変わった私たちにとって、古い人、罪、モーセの律法、古い契約、死、その他の古いものに属する全てのものとの共存はあり得ません。

 人はいわゆる Dual Nature (二つの性質)を持ってはいません。ある   人々は、罪の性質、原罪となどと呼んだりしますが、私たちは、そうしたものを持つ聖徒ではありません。クリスチャンは罪の性質を持ちながら、罪を犯すのではなく、肉の思いが働いて罪を犯したり、五感が訴えかけるものに対して肉の思いが同意して、罪を犯すのです。霊、魂、体のどこかに、罪の性質が未だに宿っているのではありません。それは取り除かれたのです。

 ヘブル 9:26「もし同じだとしたら、世界の基が据えられた時から、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除く為に現れて下さいました。」

新しいアイデンティティー 2に続きます。