罪の性質 1

 「赦された罪人」 という表現を聞いた事がある人はいると思います。通常この言葉が意味するのは、「クリスチャンは未信者と同じように罪人だけれども、キリストを受け入れているので罪が赦されている」というものです。クリスチャンでも罪を犯してしまう為に、このような表現を言ったのがマルチン・ルターでした。

 私たちは、イエスの十字架の恵みによって、全ての人の罪が赦されている事を知らなければなりません。つまり、この地上で、神によって罪が赦されていない人はいないのです。十字架の御業によって赦された罪は信者の罪だけでなく、未信者を含む全世界の人の罪でした。それともクリスチャンの罪だけが赦されているのでしょうか?もしそうだとすれば、クリスチャンがまだ未信者であった時には赦されていなくて、信じた時に赦されたのでしょうか?実は、人が神を信じた時に、人の罪が赦されたのではありません。

 ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 罪の赦しとは、アダムの違反が赦されているという事です。それは十字架の御業によって取り除かれているのです。自分たちが罪に対して何かをしたからといって赦されるものではありません。罪の告白をしたからとか、罪の悔い改め(考えを変える事)をしたから赦されたのではありません。恵みによって赦されているのです。「罪を悔い改めた場合にのみ、神は赦して下さる」という条件付きの恵みなら、それはもはや恵みではありません。十字架は既に完了した神の御業であり、人の全ての罪は赦されたという宣言が成された事を意味しています。

 さて、イエスを信じた人は義人とされています。信仰によって人は義人となるのですから、主にある私たちはもはや罪人ではないのです。しかし、殆どのクリスチャンは自分を義人だと考えていません。何故なら、自分の犯してしまう罪に目を向けてばかりいるからです。確かに罪を犯す事は決して義ではありません。しかし、未信者とは違ってクリスチャンが罪を犯しても義人と認められるのは、イエスの十字架の御業を信じているからです。それから、同じ罪を犯してしまうケースでもクリスチャンと未信者とでは大きな違いがあります。

 罪が取り除かれたという事で、人は罪と死の原理から解放されています。律法はそれらを解放できす、むしろ人を罪に定め、死をもたらしました。ここで知っておくべき重要な事は罪の影響以外に、あるものが原因となっていてクリスチャンは罪を犯しているという事実です。それは罪の影響と同じ働きを持っている「肉の思考」です。肉の思考とは、五感による物事の認識に基づいて傾倒してしまう考え方です。パウロは肉の思考についてローマ書の7章と8章で詳しく説明しています。

 未信者は、この肉の思考によって物事を判断する事しかできません。信者の場合は選択肢がもう一つあります。キリストの思考、或いは、御霊の思考によって聖書的な考え方で歩める特権を持っています。ただし、この特権を知らない間は未信者と変わらないような生活をするでしょう。クリスチャンが、救われた後でも罪の性質はまだ残っていると間違って教えられている原因は、肉の思考が罪そのものだと混同した為です。罪はイエスの贖いによってのみ取り除かれるので、私たちができる事ではありません。しかし、肉の思いは私たちが捨て去る事ができます。私たちは、神の助けを借りて、自分で思考を一新させる事ができるのです。

 まだ歩みが幼いクリスチャンは、肉の思考によって歩んでいる為に、罪を犯してしまう事も頻繁にあるでしょう。しかし、信仰の成長と共にそれが変わっていきます。パウロでさえ、その成長の過程を通りました。彼は、若い時には完全となる為に走り続けていましたが、晩年の頃(第2テモテを書いた頃)には走り終えたと言っています。

 私たちが正しい成長の道を歩んでいれば、時々失敗する事はあっても、罪の常習犯とはなりません。罪を犯したとしても、「クリスチャン失格」というレッテルを貼られる事はありません。世の人たちはクリスチャンの小さなミスも非難するかもしれません。サタンも責めます。私たちもまた、肉の弱さのゆえに、自分を責めてしまうでしょう。しかし、私たちの神は憐み深く恵み豊かなお方なのです。

罪の性質 2 へ続く