祈りとは 1

 今日、クリスチャンの祈りほど宗教的な行いとして扱われているものはないくらいです。その根本的な原因は、祈りの定義が聖書からかけ離れてしまったからです。殆どのクリスチャンの祈りは、信仰と関係なく神に何かをお願いするというものになっています。聖書の教えている祈りは、単なる希望に基づくものではありません。又、願っている内容によってはその祈りの意味がないものもあります。簡単な例を一つ挙げると、既に罪による神の怒りと刑罰から救われているクリスチャンが、救いの為に求めても意味がありません。たとえ本人が救いに確信がなかったとしても、イエスを信じている以上、神の怒りから救われているという真理は変わらないのです。

 さて、癒しも救いの一部として十字架の御業によるものです。イエスが鞭でご自分の体に傷を受けたのは私たちの病いが癒される為でした。私たちは主のうち傷によって癒されているのです。ですから、癒して下さるように神にお願いするように祈るのは意味がないのです。何故なら、神は私たちを既に癒されたからです。後はそれを信じて現実化させるだけなのです。そもそも、祈りの定義が「単なる願い」になってしまっているのが誤解いの元ですが、それに追い打ちをかけるものが二つあります。

何か問題があった時に祈る

 もし、あなたの祈りの多くが神に何かお願いしているようなら、それはバランスの崩れた祈りなのです。ギリシャ語によれば「祈り」は「強い懇願」の他にも「決断」や「誓い」という意味があります。問題がある時にだけ祈るのであれば、それはご利益主義です。

不安が祈りの動機になっている

 ペテロが水の上を幾らばかりか歩いて、イエスの所へ行こうとした時、彼は風をみて怖くなったと聖書は書いてあります。それまではイエスを見て歩いていたのに、風という問題を意識した為に不安になったのです。クリスチャンの一般的な祈りも、問題ばかりに意識を向けている為に心配や不安が先行しています。それが祈りの動機になってしまっているのは、聖書の教えと真逆です。聖書では信仰による祈りを強調しています。気づくべき点は、祈りそのものに力があるのではなく、「信仰による祈り」に力があるのです。ヤベツの祈りをすれば自分も祝福されるというのは大きな勘違いです。イエスご自身も、同じ言葉を繰り返すだけの祈りや、言葉数の多い祈りは異邦人がやるものだと言って、宗教的な祈りをしてはいけないと言われました。


定義

 ギリシャ語の「euche」というのが祈りの語源です。これは主に誓いや懇願、決断という意味があります。「pro-seuche」は祈りという名詞であり、「pro-seuchomai」は祈るという動詞で使われています。「pro」は主に方向を示す前置詞です。ですから、「願い・誓い・決断へ向う」というのがギリシャ語の意味する「祈り」です。一般的なクリスチャンの祈りは、神にリクエストするという単なる願いです。このギリシャ語は文脈から、「大胆に願う」という信仰に基づく願いを意味します。律法の下での祈りは大胆な祈り、つまり、信仰の祈りではありません。しかし、恵みの下では「信仰による祈りに力がある」という教えが基本です。

 ところで、語源から見れば分かるように、祈りの対象として通常考えられている「神」がありません。異言による祈りの場合にのみ、「神との会話」としているのは、より正しいのですが、基本的に、ギリシャ語の「祈り」は「神」や「話す」という単語に関連しているわけではないのです。つまり、聖書的な祈りは、必ずしも神に対してするものとは違うのです。そして、先ほども触れましたが、祈りとは単なる呪文や繰り返される一連の言葉などではありません。ですから、神に良い印象を与えるような儀式としてとして祈るのは、旧約聖書の律法の下ではそう考えられていても仕方のない事でしたが、恵みの下では不信仰と見なされるのです。

 マタイ 6:7-8「また、祈る時、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません。彼らは、言葉数が多い事で聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 イエスは、天の父なる神は私たちがお願いする先に、私たちの必要なものを既に知っておられると言いました。全知全能の神は私たちの心を見る事ができるので、私たちが何かを言う前に既に知っておられるのは当然でしょう。この事から言えるのは、祈りはそもそも「神に聞いてもらう為」ではないという事です。例え、あなたの立派な祈りが周りには謙遜に見え、いかにも聖書知識が豊富なような表現を使って流暢に祈る事ができても、それをもって神に良い印象を与える事はできません。祈りが必ずしも神に向かって話す事ではない理由がここにあります。

 「神との会話」を祈りの定義とするのは、先程も言ったように、御霊による祈りのケースです。御霊による祈りは、それまでユダヤ人が常識だと考えていたもの(儀式的・宗教的なもの)を完全に超越してしまったものです。しかし新約聖書が示している祈りは、従来の型にはまった宗教的な祈りではなく、信仰を前提としたものであり、儀式的な要素が全くないものなのです


祈りとは 
に続きます。