新しいアイデンティティー 2

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

 「古いもの」は archaia というギリシャ語が使われていますが、これは複数形で表わされています。「単一の古いもの」ではなく、「複数の古いもの」が正しい訳です。新しく造られた者は明らかに「人」を指しています。それと対になるのが「古いもの」であるのは文脈から明らかでしょう。ですから「古い人」が「複数の古いもの」に含まれているとするのが自然の運びではないでしょうか。ここでパウロが「新しい人」と言っている以上、その比較の対象である「古い人」を「複数の古いもの」の中に含むという読み方は無理のあるものではないはずです。

 更に、パウロは別の箇所で「古い人」と「新しい人」の二つの表現を用いて、両者が相反するものとしています。

 エペソ人  4:22-24「その教えとは、あなた方の以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなた方が脱ぎ捨てる事、又、あなた方が霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る事でした。」

 さて、「複数の古いもの」ですから「古い人」以外に何か他に含まれているという事になります。単純に「古い人に関係するもの」として無難だと思います。仮に「古い人」とは全く関係のない何かが「複数の古いもの」に含まれる場合は、それを示す聖句がないといけませんが、そこの方面に憶測を置くのは解釈上のリスクが高くなります。従って、「古い人」を生み出した「アダムの違反」が最有力候補になるのは間違いありません。それが古い人に最も深く関わるものだからです。

 クリスチャンが新しいアイデンティティーとして生まれ変わったなのなら、もう古いもの(古い人、そしてその全て)はないのです。古いもの全てが過ぎ去っているという意味は、私たちが罪と死の法則から解放されているという事と関係しています。一人の「罪」=アダムの違反によって「死」が支配したのですが、それら二つから解放されているとパウロは言いました。それら二つが過ぎ去って、人は新しく生まれ変わったのです。罪も死も、イエスの贖いによって、もはや私たちを束縛する事はありません。

  第二コリント  5:21「神は、罪を知らない方を私たちの為に罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となる為です。」

 ここの箇所の「罪」も単数形です。「私たちの代わりに罪となった」イエスは、私たちの身代わりになったのです。子羊はいけにえの象徴であり、神の子羊は世の罪を取り除く為に来られました。イエスが私たちの罪の為に、その代価を払う為にこの世に来られたのです。しかし、私たちの代わりに罪(単数)となったのに、全ての罪(複数)を赦す事になったのはどういう意味があるのでしょう?ある人々は、「罪の代価となったイエスでも、原罪だけは取り除いてはいませんでした」などと言います。しかし、アダムの犯した違反を取り除いたからこそ、それから出てきた全ての罪(複数)をも取り除く事となったのではないでしょうか?

 私たちの罪が赦されているのは、イエスご自身が罪となられ、罪として死んで下さったからです。つまり、罪を取り除くという事を実践した事によって、罪の赦しがあるのです。同様に、死に勝利したのは、死から蘇る事によって死を克服したからです。

 ローマ 8:1-3「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められる事は決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、命の御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になった為、律法にはできなくなっている事を、神はして下さいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」

 「定められることは決してありません」の部分の動詞は κατάκριμα(katakrima)罪の宣告(罪に定める)という意味です。「解放した」の動詞は ἐλευθερόω で自由にするという意味です。「罪のために」と「肉において罪を」はそれぞれ単数形の「罪」です。「罪を処罰された」の動詞は先ほどの κατάκριμα(katakrima)罪の宣告(罪に定める)が使われています。父なる神がイエスを罪に定めたという事です。それは私たちの為であり、私たちが罪に定めらず、死ななくても良いのは、イエスが私たちの為に罪(単数形)となり、死んで下さったからです。

 それでは、イエスが背負った罪はどれでしょうか?どの一つの罪において、父なる神はイエスを罪に定めたのでしょうか?嘘でしょうか?盗みでしょうか?イエスご自身は一つも罪を犯しませんでした。完全に律法を守った唯一の人としてイエスは自ら罪となり、いけにえとなったのです。イエスが背負った罪は、罪の性質そのものであり、アダムの違反であり、それを取り除いて下さったのです。

 ある教義は、全ての罪からは解放されていても、罪の性質(原罪と呼ぶ人もいる)からは解放されていないと主張します。それが本当なら、主の十字架の御業は一体どういう意味があったのでしょう?私たちの主が一番重要な罪を逃す事があり得るのでしょうか?

新しいアイデンティティー 3に続きます。