神の主権について

 今日、多くのクリスチャンの間において、「神の主権」が誤解されています。神の御心が、地上で起きている全ての事柄に及ぶという考えは信仰を破壊します。神が御心のままに全てをコントロールしている、サタンさえも操っているという教えは聖書的ではありません。もし、そうであれば、私たちの決断や行動は全て意味のないものになってしまいます。人の自由意志を否定し、神の主権だけが行われているという考えは、大きな混乱を招きます。

 良い事も、悪い事も、全て神が操作しているという教えを聞く人は、希望を失うでしょう。私たちの意思や信仰とは無関係に、神の御心の通りに全ての事が起こるとすれば、神を信じる為に人ができる事はないという事になります。信じる事が私たちの自由意志によるのでないなら、神は人間をコントロールして信者を作り出している事にもなります。それなら、宣教の意味もありませんし、イエスの十字架の意味もありません。結局、神がコントロールしているというのが真理であるなら、全て私たちとは関係のない事になります。結論から言うと、「神は全知全能であり、神の御心だけがこの地上で起きている」という考えは正しくありません。神は全知全能のお方ですが、神の御心に背いた人は大勢います。

 第二ペテロ 3:9「主は、ある人達が遅れていると思っているように、約束した事を遅らせているのではなく、あなた方に対して忍耐しておられるのです。誰も滅びる事がなく、全ての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。」

 主は、誰一人として滅びるのを望んではいません。ところが、人がキリストを信じて救われるという神の計画は、それが神の御心であっても必ずしもその通りになっているわけではありません。明らかに、主の御心だけではなく、人間の自由意志によって救いが決定される部分があるのです。実際に、私たちのする事の殆どは、自らの意思によって決定され、その通りにの結果が出ているのです。

 熱心な祈りなどによって、時々、主の介入があるくらいで、私たちがやっている事の多くは、私たち自身がそれを決定して行っています。主がどんなに人を救いたいと望んでも、人間の自由意志はその御心をも退ける事ができるのです。ある意味、人の自由意志は神の力よりも強いのです。その自由意志は、神によってコントロールされてはいません。神が私たちに正しい道を選ぶように、私たちに選ぶようにされたのは、私たちの自由意志を尊重しているからです。神が私たちに自由意志を与えておいて、実は裏でコントロールしているなどという考えは、人間の勝手な憶測であり、神の御心を知らずに語る、高ぶりなのです。

 イエスの十字架を通しての贖いは神の恵みですが、一人一人が信仰によって救われるのです。十字架によって恵みが現わされたのですが、それだけで全ての人が自動的に人救われるのではなく、神の恵みと人の信仰が一緒になる時、救いがもたらされるのです。

 へブル 4:2「というのも、私達にも良い知らせが伝えられていて、あの人達と同じなのです。けれども彼らには、聞いた御言葉が益となりませんでした。御言葉が、聞いた人達に信仰によって結びつけられなかったからです。」

エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

 恵みは神からのものです。信仰は、私たちの神の恵みに対する正しい応答です。それの間違った応答は、神の恵みを軽視する事です。

 神の主権についての誤りで見逃せない部分は、全ての禍や災難、病気や死も神がコントロールしているという、ヨブ記の曲解から来ている点でしょう。ある人々は、神はサタンに悪い事をするのを許可しているという考えを持っています。悪事を許す神は本当の神とはなりません。聖書の神は愛の神です。悪い事と愛が両方とも神からのものだとしたら、神の性質そのものが矛盾しているという事になります。

 エレミヤ書 10:23「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩む事も、その歩みを確かにする事も、人によるのではない事を。」

 人は自分の命に対して、それをどうするか自由意志を与えられているのですが、主の導きの中においてのみ成功を収めます。神は私たちを創造しましたが、それは人が神と共に歩んで、交わりの中で生きていく為でもあります。私たちの周りにある問題は、私たちが神との交わりから離れてしまったので、起こっているのです。私たちの直面する問題の全てが神から来ているのなら、私が神に信仰を置く事はできなくなってしまいます。

 ヤコブ 4:7「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。」

 この個所から明らかなように、神と悪魔は対立しています。全ての事は神から来るものではなく、悪魔の仕業もある事を私たちは知らなければいけません。神からのものに対して私たちは従い、悪魔からのものは立ち向かって抵抗する必要があるのです。従って、神は全てをコントロールしていません。

 もし、神が病気を通して人に何かを教えているとすれば、その人は病院に行って、その病気を取り除くような事はしない方が正しいという事になります。何故なら、それは神の計画に反抗しているからです。神の主権についてよく分からない人は、病気でさえも神からのものであるとし、それを通して彼らは何かを学ばされていると主張します。その一方で、必死にその病気からの回復を願ってもいるのです。彼らは、この矛盾に気付いていません。

 病気が神から来ているという考えがあるのは、神の愛と恵みについてよく理解していないからでしょう。神が病気をもたらしているのなら、何故イエスは癒し主として言われているのでしょう。福音書に記されている多くの癒しの御業を成し遂げたお方が、病気によって罰を与えるでしょうか。モーセの律法の下では、人が律法を破る事に対しての刑罰は、呪いという言葉で表現されていました。病気は、その呪いの一つでしたが、今は恵みの時です。

 あらゆる病気の根本的な原因は、サタンです。あらゆる呪いの始まりが、サタンから始まったからです。悪いものが神から来たと考えるのは、正しくはありません。確かに律法の時代においては、神は律法に従って、人々を裁いていました。そこには常に刑罰がありました。しかし、その中でも、恵みと憐れみはあったのです。古い契約の時代においては、キリストがまだ神の恵みを具体的に現していない為に、ほぼ全ての人が神の恵みを悟る事ができず、モーセの律法を通して宗教的な概念で神を理解していました。ですから彼らは、全てが神からの来ると考えていたのです。しかし、様々な災いは、彼らが神に聞き従わなかったからであり、それはむしろ、律法が要求する罰だったのです。

 イエスの十字架の御業は、神と人間の和解の為であり、恵みの福音にあずかる私たちにとっては、罪を犯したとしても、律法が要求する刑罰を受ける事はなくなりました。癒しも罪の赦しも、全ての呪い(律法が要求する刑罰)がキリストの十字架によって解決されたのです。この十字架による恵みの現れが、神の御心であって、旧約時代のモーセの律法による生き方は神の御心ではありません。申命記28章4節によれば、病気は呪いとして扱われています。その呪いは神からのものではなく、人間が罪を犯した事が原因となっていました。

 病気や死は、人に何も教える事はできません。それらは単なるきっかけに過ぎないのです。私たちが何か良い事を学ぶ唯一の機会は、聖書の御言葉を聞いた時なのです。ですから、困難な経験をしなくても私たちは常に聖書から何かを学べます。人が困難を通るのは、サタンの攻撃にあっている事もありますし、自分で蒔いた種を刈り取っているケースもあります。又、油断して主との交わりの外に出てしまうと、困難に会ってしまうのです。この世は、悪霊どもが様々な方法で、この地上を混乱させているからです。

 一方、父なる神は人間に対して悪いものを与える事はありません。サタンについてよく知らずにいると、このような間違いにも気付きにくくなります。多くのクリスチャンは、何事も我慢するのが美徳だと勘違いしています。まさにこれは、サタンの思うつぼなのです。サタンは自分のした悪事を、神のせいにしているのです。

 こうしてクリスチャンが、神に対して不信仰を持つようになり、病気の癒しに対して消極的になっているのです。多くのクリスチャンは、天国に行くたどり着く事だけが、唯一の希望となってしまって、そこだけにしか、クリスチャン人生の意味を見出そうとしません。

 ヨハネ 10:10「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする為に他なりません。私が来たのは、羊たちが命を得る為、それも豊かに得る為です。」

 サタンは盗人であり、盗んだり、殺したり、滅ぼすだけの存在なのです。そして、イエスは、私たちに永遠の命を与え、それをさらに豊かにする為に十字架にかかったのです。クリスチャンがこの世に生きている間は、永遠の命を持ちながら、更に豊かに生きれるという神の恵みがあります。神は全てをコントロールする事をあえてせず、サタンにも人間にも自由意志を与えました。ですから、神の恵みは受け取る人間の意志が必要なのです。十字架の恵みだけで、全ての人を自動的に救う事はできません。そして、それを邪魔するサタンを忘れてはいけません。私たちは、敵を知らずにいると負けてしまいます。敵の存在を知って戦う必要があるのです。全ての良いものは天から来るのです。良いものと悪いものを見極めるのは難しい事ではありません。ただし、その判断には聖書の知識が必要です。

 神の主権があるとすれば、聖書の法則を定めた時に、ご自身の主権を行使したのです。それは、人に自由意志を与えて、神の恵みを受け取る人には祝福を与えるという信仰の法則です。信じれば救われ、癒やされ、解放されるという法則です。しかし、主からの恵みを現実化する為には、主との交わりから離れていた事を悔い改め(考えを変える)、信仰に立ってサタンに立ち向かって、邪魔者を追い払う事が必要なのです。