祈りとは 3

 マタイ 6:9「ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ...」

 当時、神に対して「父」と呼ぶユダヤ人はいませんでした。彼らにとってはそのように考える事もできませんでした。何故なら、神を「父」として見ていなかったからです。律法の下にいる彼らにとって、神はいつも恐ろしい存在でした。ですから祈りは、祭司が代表として行った仕事であって、少しのミスも許されない完璧な儀式でもあったのです。そういうわけで、彼らにとって神を「父」とする表現は神に対する冒涜というくらい不適切な呼び方だったでしょう。

  言うまでもありませんが、誰でも口先だけなら「アバ、父よ」と発言する事はできます。イエスはここで口先だけでも良いからそのように言いなさいと教えていたわけでもありません。口先だけの偽善者の祈りであって良いはずがありません。真理によれば、聖霊無しには誰も「アバ、父よ」と呼ぶ事ができません。リップサービスではなく、本当に心から「アバ、父よ」と言いなさいと教えたのです(ローマ 8:15)。つまり、イエスは当時のユダヤ人にはできない祈りを教えていたのです。彼らにできもしない事を教えていたという事に気づけば、主の祈りでイエスが何を言おうとしたのか見えてきます。聖霊が与えられたのはイエスの十字架の後ですので、イエスが主の祈りをユダヤ人に教えていた時には、彼らにとって不可能な祈りだったのです。

 マタイ 6:10「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」

 神の国が来る事と神の御心が地上でもなるように求めなさいとイエスは教えています。「御国が来ますように」の部分もユダヤ人にとってまだ分かりませんでした。これは、単に世の終わりの日が早く来て「万々歳のハッピーエンド」になるようにという、浅はかな願いではありません。御国が来るという意味は、神の国が地上に実現化するようにという期待とその宣言の事です。この実現化は神の子供たちであるクリスチャンが成すべき事であり、これがクリスチャンの地上で生きる目的なのです。当時のユダヤ人は、世の終わりに神ご自身が地上を神の国になさると考えていました。ところが、この地上を治めるのは私たちなのです(詩篇115:16)。

 「御心が天で行われるように、地でも行われますように」の祈りも、当時のユダヤ人は理解できなかったはずです。彼らは全て地上で起こっている事は神がコントロールしていると考えていたからです。この部分は現在のクリスチャンでも同じように考えています。もし神の御心通りに事がなされているのなら、全ての人がイエスを信じて救われているはずです。

 マタイ 6:11「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい。」

 「日ごとの糧」は当時のユダヤ人だけでなく、誰でも理解できる箇所だと思います。何故なら、毎日の糧を求めるという肉の欲求は、誰でも知っているからです。「日ごとの糧」は私たちに必要なものなのですが、必要なものは求めなくても良いとイエスは言われます。ここをおろそかにすると主の祈りの本質を見逃してしまいます。

 マタイ 6:12「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」

 この部分もユダヤ人にとっては理解できた箇所です。彼らは律法主義でしたので、常に罪意識があったからです。しかし、神が私たちを赦されるのは、私たちが私たちに負いめのある人たちをまず赦すからなのでしょうか?それならばどこに恵みによる赦しがあるのでしょうか?この個所が「目には目を、歯には歯を」という律法と同じ視点である事に気づいて下さい。真理によれば、主が最初に私たちの罪を赦して下さったのです。私たちがある条件を満たすと罪が赦されるのではありません。無条件の愛によって、まず主が先に私たちを赦して下さいました。だからといって、他人を赦さないでも良いというわけでもありません。ポイントは人の罪はキリストの十字架によって赦されている(十字架がその象徴ゆえに)というのが真理であり、十字架以前にイエスが教えた主の祈りでは、この部分が律法の視点になっているという所です。

祈りとは 4に続きます。