祈りとは 2

 一部の例(下に解説)を除いて、旧約聖書から祈りを学ぶ必要はありません。恵みの下での祈りは全く新しいものになったので、律法の下での祈りは参考にならないからです。イエスが私たちを宗教的な祈りから解放して下さった事に気づいていますか?旧約の律法の視点からだと人間は取るに足らない存在です。律法の下では、人は汚れた罪人であり、聖なる神に近づく事はできない、価値のない存在という視点なのです。ですから、その視点から私たちが神に祈ろうとすると、どうしても大胆に神の御座に近づく事はできないのです。ちなみに、エリヤの祈りは旧約聖書の中でも例外な祈りの一つです。彼の大胆な祈りは、私たちが参考にすべき祈りです。

 へブル 4:16「ですから私たちは、憐れみを受け、又、恵みを頂いて、折にかなった助けを受ける為に、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 恵みが十字架によって人に完全に知られる前は、人間は誰も神の恵みの御座には近づけないのです。十字架の恵み以外の方法で私たちは神に近づく事は不可能です。

 へブル 10:19「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入る事ができます。」

 イエスキリストの聖なる血によって、つまり、イエスキリストの十字架による贖いによって初めて、私たちは初めて父なる神の聖所へと大胆に入ることが可能なのです。旧約聖書の時代では、祭司しか聖所に入る事ができなかったので、まさに選ばれた人のみが神に祈る事が許されていました。この幕屋の至聖所は地上で作られたものでしたが、祭司は命がけでその任務をこなす程でした。ですからユダヤ人にとって、祈りはミスを許されない聖なる行為であったのです。

 恵みの下では、どのようにして祈るべきでしょうか?ヒントは主の祈りの中にあります。ただし、主の祈りは正しく解釈される必要があります。イエスがどのような意味で主の祈りを用いて私たちに祈り教えていたかを理解しなければ、結局、主の祈りが「祈りの型」として宗教的なものとして誤解されてしまいます。さて、福音書の主の祈りは祈りについて知る事のできる重要な個所である事は間違いありません。そして主の祈りについて一般的な誤解を取り除く鍵となるのが三つあります。

  1. ギリシャ語の「祈り」の意味の理解
  2. イエスが教えていたユダヤ人はまだ律法の下にいたという事実
  3. 主の祈りでイエスが意図していた事
1は聖書全体に関わるのですが、2は福音書に関わるものです。3は2を理解した上で主の祈りを読むと理解できます。それではここからは主の祈りの解説を中心に書きたいと思います。

 マタイ 6:8「ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 まず主の祈りの前にイエスは偽善者の祈りについて注意を促しています。彼らの形式的な、宗教的な上辺だけの祈りを真似してはいけないとマタイの6章5節辺りから言っています。言葉をたた繰り返したり、言葉の数だけを増やせば良いという祈り(異邦人の祈り)ではだめなのです。イエスはここで、私たちの父なる神は私たちの必要なものを既に知っておられると言いました。次の聖書の箇所も同じ内容です。

 マタイ 6:31-33「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。これらのものは全て、異邦人が切に求めているものです。あなた方にこれらのもの全てが必要である事は、あなた方の天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」

 イエスは必要なものについて心配して祈る事はないと言っています。神の国とその義をまず第一に求めているなら、それに加えて必要なものはすべて与えられると言っています。実は33節は主の祈りの結論に当たる部分です。主の祈りの中で一番肝心なのは神の国とその義とをまず第一に求める事なのです。主の祈りと神の国とその義を第一に求める事は別々の教えではありません。マタイ6章全体をゆっくり読めば分かります。イエスは主の祈りを通して祈りの模範を示した後、それの解説をしています。そして6章33節が結論なのです。イエスによる主の祈りの解説が理解できないと、主の祈りを単なる祈りの模範としてリピートするという上辺だけの祈りになってしまうのです。

祈りとは 3に続きます。