恵みと信仰 その1

 比較的熱心なクリスチャンなら、毎週の主日礼拝、日々のデボーションも欠かさないはずです。毎日やるべき事をやっていれば、きっと祈りは聞かれると考える人は多くいます。ところが、このような考えは神の恵みをよく理解していないものである場合が多く、信仰を土台に置かない、上辺の行いにこだわった、律法主義なものになっている事があります。

 祈りは、私たちの肉の努力によって聞かれるというわけではありません。しかし、正しい考えと動機に基づいた、正しい努力というものはあります。その努力とは、私たちが神と神の言葉を信じる事です。信仰によって立ち、信仰によって歩む事は私たちの責任であり、私たちのするべきもの、私たちの努力とも言えるのです。クリスチャンとしてやる事は多くありますが、それらは全て、信仰によって行うかどうかが鍵です。とは言え、恵みという神からの好意をまず第一に考えないと、何をどこまでやるのか、何が宗教的な行いなのか、それとも信仰なのか分からなくなる事もあるでしょう。

 エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

 まず、神が恵みを示して下さいました。その恵みは、旧約時代には多くの人には明らかにされていなかったのですが、約二千年前のイエスの十字架の御業において、今は私たちにはっきりと示されています。イエスの十字架の御業に、神の恵みが示されているゆえに、それを信じる事によって私たちは永遠の命を得る事ができるのです。しかし、この贖いに対する信仰は、永遠の命についてだけに適応されるのではなく、私たちが神の子供としてやる事、全てに関わります。

 例えば、私たちが信じて義と認められる事は、それそのものが恵みです。ですから、私たちの努力次第で祈りが聞かれるわけではありません。私たちが義と認められたのは、熱心な祈りによってではないからです。鍵となるのは、恵みと信仰が常にセットになっているという事です。つまり、神のする事と、人のする事があるのです。神は恵みを与え、人はその恵みを信じるという事です。

 神の恵みは既に完全に現れています。ですから、全ての人が主を信じるだけで救われるのです。そして、信じるという事が私たちの唯一のすべき「努力」なのです。ただし、信仰にも行いが伴います。信仰による行いは、単なる行いだけのもの、宗教的な形だけの行いや、間違った動機に基づくものとは違います。信じているがゆえに、それが行いとして自然と外に表れるという事です。

 神の恵みに対する正しい応答とは、信仰によってその恵みを受け取るという事に他なりません。信じる事は私たちのする事であり、信じた時に救われたり、癒しが起きたり、その他の祝福を見る事ができるのです。また、御言葉の約束を信じるという事が信仰でもあります。神の存在や、神の力の存在を信じるだけでなく、御言葉を理解してその真理や原則を信じるという事が信仰です。

 私たちの良い行いに応じて、神から祝福を得るという考えなら、それは宗教になってしまいます。そこには信仰がないからです。罪の赦しでさえ、私たちの悔い改めに応じて神が赦して下さるという事ではないのです。私たちの罪は、私たちが生まれる前にイエスが十字架によって取り除いてくれました。私たちが悔い改めた後に、神が私たちの罪を赦して下さったのではありません。肉の弱さによって、人が犯してしまう一般の罪は、十字架の恵みのゆえに既に赦されています。悔い改めの行為は、罪を赦していただく為の必須条件ではないのです。悔い改めは、既に赦された私たちの歩みが、神の子として歩むようになる為の最初の方向転換(考えを変える事)なのです。

 恵みをよく理解していないクリスチャンは、気づかない所で宗教的な行いをしてしまっています。祈りが足りないから祝福をもらえないと考えています。或いは、聖書をよく読んでいないからとか、その他の理由を幾つも並べて、全てをこなそうとします。それらは重要なものですが、それらをする事によって、神を動かして祝福を得ようとする考えは間違っているのです。恵みゆえに神からの祝福は、既に私たちクリスチャンに与えられており、後は祝福を現実にするだけで良いのです。ただし、祝福を現実化する唯一の方法は、信仰によると聖書は教えています。

 例えば、罪を赦して頂く為に私たちは神に何かをするべきでしょうか。聖書では、私たちがまだ罪人であった時から、私たちの罪は赦されているという視点から教えています。

 ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 キリストは、私たちが悔い改めた後で、十字架に掛かったのではありません。私たちが生まれる前には、既に十字架による恵みが示されています。私たちが恵みを手にするには、それを信じる必要があります。祈りも聖書の通読も、献金や教会に熱心に通う事などは、全て恵みを受け取る条件ではないのです。

 神の恵みによって、私たちは様々な祝福を得る事ができます。その祝福は、私たちが永遠の命を受けるだけではありません。癒しや解放、経済的祝福なども、神の恵みによって約束されています。さて、神にの恵みが先に示されたのは、神が私たちの必要を既に知っていたからでした。ですから、私たちが病気になる前に、既に癒しを用意しておられたのです。経済的な祝福も、その必要性が起こる前に、あらかじめ恵みによって用意しておられたのです。

 現在、救い、癒し・解放があるのは、既に示された十字架の恵みによって私たちがそれを信じて行動する時に、見られます。これが御言葉の原則です。約二千年前に、癒しの恵みが十字架の御業を通して明確に現れたのですから、私たちの宗教的な努力によって奇跡が起こる事はありません。今日、救いや癒しの恵みが私たちの間で起こるのは、私たちの宗教的な行いではなく、信仰によって祝福を現実化したからです。注意したいのは、信仰自体も「神を動かす」為の力ではありません。何故なら、神は既に動いたからです。神の側では癒しの業は完了したのです。十字架の恵みは、完全に現わされました。後は私たちが信仰によってその恵みを現実にするだけなのです。

 多くのクリスチャンは神は、その御心によって何でもしてしまうと考えています。ある教えは、神は、この世のもの全てを完全にコントロールしていると言います。それは神の御心によらず事が起こる事はないという憶測からの誤解です。そのような教えは、神が人の自由意志さえコントロールしているという矛盾も主張してしまいます。神は自由を与えているのですから、私たちの意志はまさしく「自由」なのです。全ては神の御心次第であり、私たちはそれに対して何もする事ができないという考えは間違いなのです。

 人が不幸な事に遭遇するのも全て神からのものだとすれば、神の定義そのものが危ういという事に気づいて下さい。悪をもたらすのは神なのでしょうか。この質問に自信を持って答える事が出来ないクリスチャンは、神の愛と恵みを全く知らないと言うしかありません。人間の親でも、自分の子が「魚を下さい」と言えば、その通りにするとイエスは言いました。神が災害などをもたらすなら、天の父なる神は人の親よりも悪い事をしているという事になります。しかし、全て悪いものはサタンから来るのです。

 ヨハネの福音書 10:10「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする為に他なりません。私が来たのは、羊たちが命を得る為、それも豊かに得る為です。」

 イエスは私たちの身代わりになったほどに、私たちを愛しておられます。イエスは、十字架の御業を通して私たちに永遠の命を得させる為に来られました。そうであれば、病気やその他の不幸を「試練」という嘘でごまかす事があるでしょうか。嘘が見抜けなくなったクリスチャンにも問題はあります。神による訓練は確かにありますが、それは人の死や病気という形で来るものではありません。

 人の親でもその子供に何かを教えるといって、命に関わるような事をしてそれを「教育」と言うでしょうか。間違った考えを持つ人の親ならそうする事もあるでしょう。しかし、私たちの神は完全なる方であり愛の神です。それとも、クリスチャンは神の愛が分からないのでしょうか。

恵みと信仰 その2に続きます。