祈りとは 5

 さて、主の祈りをもう一度ギリシャ語から見てみます。主の祈りで使われている以下の動詞が命令形であるというのが、主の祈りの理解の助けになります。日本語では、尊敬語が含まれている為に、以下の動詞が単なる「お願いの祈り」に見えてしまうのですが、これらは全て命令形になっています。

 「御名が聖なるものとされますように」「聖なるものとされる」の命令形
「御国が来ますように」「来る」の命令形
「御心が天で行われるように」「成る」の命令形
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい」「与える」の命令形
「私たちの負い目をお赦し下さい」「赦す」の命令形
「悪からお救い下さい」「救う」の命令形

 英語で見ると命令形で訳されているのがより分かると思います。

 Hallowed be Your name「御名が聖なるものとされますように」
Your kingdom come「御国が来ますように」
Your will be done「御心が天で行われるように」
Give us this day our daily bread「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい」
Forgive us our debts「私たちの負いめをお赦し下さい」
But deliver us from the evil one「悪からお救い下さい」

 文法という壁が影響しているという事ですが、命令形という事から、これらの動詞が強く要求するものとして理解する必要があります。ですから、「強い要求、訴え」がより適切です。「私は~を願っています」というよりも、「~が絶対そうなるように」くらいの強い訴えや宣言です。「願ってもそれが叶うか分からない、それでも一応お願いする」という適当なものではないのです。「願った事は絶対そうなる」という「強い確信、信仰に基づく大胆な宣言」なのです。

 律法の下では、神に向かって大胆に訴えるような事はできなかったのですが、イエスはそのようにしなさいと「主の祈り」を通して教えていたのです。律法の下にいた彼らのよく知っている日常の必要を例に挙げ、それらに対する今までの「お願いの祈り」を、今度は命令形に変えて大胆に要求しなさいと教えていたのです。

 私たちの神は父なる神です。その子供たちを愛しておられるという事を知らないと、主の祈りの本質は分からないでしょう。どんな親であっても、子供が求めると与えるのが当然だとイエスは言われました。ですから、私たちは大胆に父なる神に向かって要求する事ができるのです。長い間律法の下にいたイスラエル人は神に対して恐れを持っていました。間違った神の認識を持って祈るなら、私たちは信仰を持てず、自分自身を無意味に卑下してしまい、しかもそれを「謙遜」という美徳だと考えて、ますます宗教的な上辺だけの行いをするようになります。

 本当の謙遜はイエスの教えを素直に信じる信仰に基づいています。神を信頼ぜず、自分勝手な解釈による聖書の理解や祈りこそ高ぶりであり、そのような偏見はパリサイや律法学者が持っていたものです。全てを知っている父のような神だからこそ、その方を信頼して大胆に要求するべきだとイエスは意図したのです。

 小さな子供が何か欲しい時に親に遠慮するでしょうか?親の機嫌を伺ったり、まずは親のご機嫌をとってから頼むでしょうか?残念ながら確かに人間の親子のケースでは実際にそうなっている事もありますが、一般的に言えば、健全な人間関係の下で育った子供は、親に欲しいものを率直に要求するものです。

 「どうか~して下さい」という「信仰のないお願い」は、今日の殆どのクリスチャンの祈りの定義になってしまいました。いかに「アバ、父よ」の意味を知らないかが露わになっています。もし、天の父なる神がどういうお方かを知っていたなら、そのような信仰のない祈りにならないはずです。神に求めたら、神は必ず与えて下さると分かっている、確信している前提で祈るのが本来の祈りです。

 第一ヨハネ 5:14-15「何事でも神の御心に従って願うなら、神は聞いて下さるという事、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願う事は何でも神が聞いて下さると分かるなら、私たちは、神に願い求めた事を既に手にしていると分かります。」

 神を父親のような身近で信頼できるお方と認識して、求めるものは全て与えられるという強い確信に基づくなら、あなたの祈りは自然に大胆になるでしょう。要は、信仰による祈りや信仰によって山を動かすというのが祈りなのです。イエスは、私たちがそのように祈る(要求する)事を願っているのです。

 もう一度言いますが、このような大胆な祈り(大胆な要求)は、イエスが祈りについて教え、それを聞いていた当時の弟子たちにはまだ理解できませんでした・・・聖霊を受けるまでは。 彼らがそれまでよく祈っていた祈りのリスト(日々の糧、罪について、悪からの救い)を大胆に要求する事はできなかったのです。大胆に神の御座に近づくには、イエスの十字架の恵みが必要だからです。

 視点を少し変えますが、次の聖書の個所からも祈りが大胆な要求である事が明らかです。

 マルコ 11:23-24「まことに、あなた方に言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。ですから、あなた方に言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、既に得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」

 この箇所からも、祈りが必ずしも神との会話や神に向かってお願いを聞いてもらう事ではないのが明らかです。神と会話する祈りもありますが、それは主に、異言による祈りです。又、神にリクエストを聞いてもらって、もし御心に叶うなら奇跡を起こしてもらうという「信仰のない祈り」ではなく、私たちが神に信頼する時に奇跡が起こるという信仰が鍵なのです。もはや「憐れんで下さい。どうかお願いを聞いて下さい」という古い契約の下で、人々が祈っていたような祈りではなく、神の子として大胆に要求し、不可能な事を可能にしてしまう(山を動かす)信仰に基づく祈りであるべきなのです。

 最後に、ルカによる福音書にある「主の祈り」の直後にイエスが語られた箇所を見ます。

 ルカ 11:5-10「また、イエスはこう言われた。『あなた方の内の誰かに友だちがいて、その人の所に真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私の所に来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないで欲しい。もう戸を閉めてしまったし、子供たちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげる事はできない。』あなた方に言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげる事はしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。ですから、あなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。誰でも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

 ここでイエスは、熱心に求める事の重要性を説いておられます。しかし、「何を求めるか」という部分もきちんと言われています。引き続き引用します。

 ルカ 11:11-13「あなた方の中で、子供が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それならなおの事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。』」

 ルカ 11:9-10 はよく引用される箇所ですが、これらだけを引用してしまうと、あたかも漠然と「何でも求めればその願いが叶えられる」と誤解されがちです。実際に、この誤解が土台となって、「単に求める事」が祈りだと多くの人々が思っているのです。ところが、この箇所で「求めれば与えられる」のは聖霊です。

 イエスはルカによる福音書で、主の祈りの解説として聖霊を求めるという私たちのする事と、その願いを聞いて聖霊を与えて下さる天の父なる神について述べているのです。その理由は、聖霊なしには主の祈りの意味が理解できないからであり、信仰による祈りができないからです。私たちが神の子となって、初めて、信仰による祈りが可能になります。そうすれば、神の子たちである私たちは、大胆に父なる神に求める事ができます。そして、父なる神がその子供たちに最良のもの(聖霊)を与えたいという願いを持っておられる事、又、私たちが究極的に求める事とは、聖霊を求める事だと悟らせる為に、このたとえを語られたのです。

 マタイの福音書による「主の祈り」の解説部分では、その結論として、神の国と神の義を第一に求めるようにとイエスは教えられました。この事とルカによる福音書にある聖霊を求める事は関係しています。何故なら、私たちが聖霊を受ける前に、神の国と神の義を第一にして歩む事ができないからです。

 神が見ているのは私たちの心であり、それは信仰です。人は心で信じるのです。頭ではありません。神は上辺だけの形や行いに興味はありません。ですから、神に喜ばれるような祈りは、信仰による祈りだけなのです。信仰のない祈りは宗教的なものであり、真の祈りではありません。それを、イエスは主の祈りで示されたのです。

 人の立派な祈りを見て神が喜ぶ事はありません。それが神の為になる訳でもありません。祈りはむしろ、私たち自身の益となる為にあります。信仰の祈りを通して多くの祝福を実現化していくのは、他ならない私たちの為です。この事が理解できると、無意味に神に良い印象を与える事ばかりにこだわった祈りをしなくなります。そのように考えていたのは、パリサイ人であり律法学者だったのです。この事が分かると、宗教という型にはまった祈りから解放されるでしょう。そして、自由で素直な祈りに変わっていき、信仰による祈りに変わって行くでしょう。ヤベツの祈りを真似して唱えてみたり、その他の祈り方にこだわらなくなるでしょう。

 ここまできちんと理解できたなら、「主の祈りを唱えると何か不思議な恩恵がある」というような考えが間違いである事に気づき、それを闇雲にリピートする事をやめるでしょう。そして、イエスの十字架によって恵みが私たちに降り注がれている事を知れば、大胆に山に命令してそれを動かす事ができるようになります。そうなると、私たちの祈りは、「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」の箇所が示すように、心から神を褒め称える事ができるようになります。また、恵みによってあらゆる祝福が既に私たちの内にある事が分かると、小さなものを願い求める事をやめ、「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」と言って、もっと核心的な事柄に対して、大胆に要求し、宣言するようになるでしょう。

 こうした祈りが出来るには、私たちが自分たちのアイデンティティー(神の子である事)を明確に知り、本来のやるべき事と人生の意義(地上を治め、神の国を前進する事)を悟っていなければなりません。真の祈りとは、新生した神の子だけが祈れるものであり、信仰に基づく大胆な宣言です。その祈りを、御霊の助けを得てやると、異言の祈りになります。