献金について 2

 モーセの律法に基づく献金が必要のない理由をもう少し説明したいと思います。古い契約においては、神に対する贈り物は「初穂」であるべきだと定められています。次の箇所は律法の下での教えですが、私たちは更に優れている契約の下にいるので、本当ならば「初物」以上のものであるべきなのです。ここではまず、その理解から入りましょう。

 箴言 3:9「あなたの財産で主をあがめよ。あなたの全ての収穫の初物で。」 

 モーセの律法の下では、主に「初物」を与え、その後に自分たちの生活の必要を考えます。この事からも、元々献げ物をするという行為は信仰を要するものであったのが明白です。当時のイスラエル人は、その信仰の部分が理解できずに、「献げ物をしないと呪われる」という恐れから、儀式だけをするというものとして考えていました。確かに律法の下では、律法によって裁かれる呪い、つまり律法を犯した結果の刑罰がありました。しかし、今は律法による刑罰は全てなくなっています。イエスが十字架に掛かったので、私たちに対する律法が要求する刑罰はないのです。

 新しい契約の下での献金は、各自の信仰基づいて自由に行う事ができ、誰からも咎められるべきではありません。モーセの律法でも、「信仰による献金」として実際には意図されていたのです。ましてや、信仰によって歩む私たちにとっては、それを決して宗教的な死んだ行いに戻すべきではありません。

 さて、教会での献金の状況を考えてみましょう。特別な献金額を掲げて、信徒に献金するように促しているケースをしばしば見かける事があります。極端なケースでは、その目標額に達するまで、必ず皆が献金するようにと促したりします。こうなっては、喜んで与えるという気持ちがなくなり、形だけの、その場を逃げる為に誰かが献金するかもしれません。金銭的援助が必要であるという報告は構いませんが、そこを強調しすぎてしまうと献金が強制的になってしまいます。

 指導者は、信徒が献金を自由に自ら進んで、信仰によってできるように促すべきです。肉の思いで築こうとしている教会は、献金が強制的になっています。例え、教会の発展の目的で献金が集められても、そのお金の管理が各信者の為でないと本末転倒ですし、献金から生じる様々な問題は、大きなつまずきとなります。サタンが頻繁に攻めてくる領域は、教会の金銭の分野です。

 献金は、喜んで与えるべきであるというのがパウロの教えですから、教会の指導者から強制されて献金するのは間違いです。だからといって、常日頃から肉の思いで歩んでいるクリスチャンが、「喜んで与える」という意味を曲解して、喜ぶ気持ちがある時に献金すると言い訳をして、実際には全く献金しないというのも正しくありません。そもそも、献金を単に「やるべきかどうか」という論点で見るべきでもありません。

 恵みの下では、献金をしないでも律法による罰則(古い契約では呪いと呼ばれていた)はありませんが、信仰に基づいて金銭的な援助を教会にしないなら、神からの経済的祝福もありません。

 
第一コリント 9:11「私たちがあなた方に御霊のものを蒔いたのなら、あなた方から物質的なものを刈り取る事は、行き過ぎでしょうか。」 

 教会では、御言葉が霊の糧として私たちに与えられています。ある集会で誰かがメッセージを聞いて、それがその人の霊的成長に役に立ったなら、そのメッセージをした人は報酬を受けるべきです。パウロは、教会自体に捧げる献金という事ではなく、指導者としてそこで奉仕している人たちと、教会に集まる人々の為に捧げるべきものがあると教えたのです。

 注意したいのは、自分が通っている教会がホームチャーチだという事だけで、自動的にそこが献金する場所とは限らない事です。学んでいる人が教えている人から学び、それによって成長しているかどうかが鍵です。頻繁に集っている教会が、あなたの行くべき教会とは限りません。そこでの交わりを通して、あなた自身が成長するかどうかです。それを知らずに献金しようという判断は間違いなのです。お情けで献金するというのも同様に間違いです。それらの行いは宗教的であり、信仰に基づいて喜んで与えるものとは違います。義理の献金は非聖書的です。

 
第一コリント 9:13-14「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の捧げ物にあずかる事を知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。」

 
ガラテヤ 6:6「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と、全ての良いものを分かち合いなさい。」

 
第一テモテ 5:17-18「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。御言葉と教えの為に労苦している長老は特にそうです。聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。」

 御言葉を聞いて、あなたが成長しているかがポイントです。誰でも食事をしたレストランから離れて、別のレストランで勘定を払うような事はしません。食べた所でお金を払います。
しかし多くのクリスチャンは、こうした単純な事に気づいてさえいません。献金が長い間、宗教的な行為として教えられて来たからです。人の伝統の教えは、真理を無にしてしまいます。

 御言葉をきちんと教えていない集会や教会をサポートするのは、意味のない団体を無意味に存続させるようなものです。厳しいかもしれませんが、そもそも聖書的な教会の機能がゼロな所は、教会とは言えないのです。そこに集う事の違和感を我慢しつつ通い続け、短期間は何となく宗教的達成感を果たせたように感じたとしても、結局本人が飢え乾くだけなのです。

 そうした「虚しい教会生活」を続けるのなら、次第に信仰によって歩めなくなるのはむしろ当然でしょう。完全な教会を探すようにと言っている訳ではありません。今はまだ、完全に成長した信徒の集会が存在しないのも事実です。しかし少なくとも、自分のうちに違和感を感じている教会に通い続け、献金をしてしまう事は問題でしょう。

 
第一コリント 9: 7「はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。」

 パウロはコリントの信者たちに負担をかけたくないと思って、彼らから受け取るはず「福音の働きから生活の支え」をあえて受け取りませんでした。彼ら
(コリントの人)が肉に属する人たちで、幼かったからです。彼らに「献金の負担」をかけなかった事をパウロは彼の「不正」だったとして後で皮肉を言っています。(第二コリント 12:13)

 キリストの体として、私たちはお金が必要な兄弟姉妹を支える目的で、献金をします。そして、御言葉を教えているリーダーのサポートも含まれます。従って、間違った教えをしている牧師や教師がいる教会に献金捧げるべきではありません。信徒を御言葉で育てるという役目は彼らの奉仕であり、それが教会で集まる第一の目的です。正しく教えている教会に移らずに、そこに留まっている事は、神の御心ではありません。そこで間違った献金をする事も、あなたの金銭管理に関わる大きな問題となります。