全てはあなたの内にある

 どんな祝福であっても、あなたは神に祝福して下さいと乞う必要はありません。これは真理です。何故なら、神はキリストにあって、天上にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さったからです。

 こう聞いて、それはあり得ないと思う人もいるでしょう。ある人は医者の診断結果から何かの病気を持っていると言われていて、癒しが必要な人もいるかもしれません。しかし、目に見えている現状が何であっても、神は既に、私たちに必要なものを与えておられるのです。

 第二ペテロ 1:3「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召して下さった神を、私たちが知った事により、主イエスの、神としての御力は、命と敬虔をもたらす全てのものを、私たちに与えました。」

 私たちに欠けているものがあるとすれば、それは正しい聖書の理解に基づく、思考の一新です。究極的に言えば、全ての霊的知識も私たちの中にあります。しかし、私たちの思考がそれに気づいていない事が問題です。その理由は、私たちの知性は新生の後も、殆ど変わっていないからです。

 さて、殆どのクリスチャンは、神には何でもできる力があると信じています。ところが多くの人は、神が既に私たちを祝福した事に気づいていません。私たちは、必死に神にお願いしてリバイバルが起こるように、癒しが起こるように祈ったり、或いは、経済的な祝福を与えて下さるように祈ります。聖会という名の集会を片っ端から参加し、どうにかして神から祝福を受けようとしています。

 
エペソ 1:3「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました。」

 私たちは、既に霊的祝福を受けています。これは、霊的な現実においては、全ての霊的祝福を受けているという事です。従って、私たちのすべき事は、それらが目に見える現実においても、現れるようにする事です。御心なら癒して下さいという「希望の祈り」ではなく、「キリストのうち傷によって癒されている」と信仰を持って宣言し、大胆に求めるべきなのです。今から勝利を得ようとするのではなく、既に勝利を得ているという立場から宣言する事が、本来のクリスチャンの祈りなのです。

 癒される為に祈るという視点と、既に癒されているという視点で告白する事には大きな違いがあります。イエスが癒して下さったという視点から祈っている人は、
イエスに信頼を置き、癒されたという聖書の約束に信頼を置いているので、その約束を現実化させようと、諦めずに信じ続ける事ができます。運が良ければ神に癒してもらおうとするのではなく、既に癒されたという約束を宣言し、現実化させる為の信仰が鍵なのです。その他の神からの約束も同様です。経済的な祝福でも、平安や喜びなども既に与えられています。それが分かるなら、周りの環境や他の人の言葉などに影響されることなく、常に平安を保てるでしょう。

 イエスは、「神の国は、あなた方のただ中にあるのです」と言われた事を思い出して下さい。神の国とは、神の御心が完全に動いており、神の力によって統治されています。そこでは悪の働きがなく、病気もありません。神の国が私たちの内にあるなら、そこには、神の御心も御力もあるのです。

 
第一コリント 4:20「神の国は、言葉ではなく力にあるのです。」

 御国の王であるイエスは、神の右の座に着座されているのと同時に、聖霊を通して私たちの内におられます。イエスが私たちの内におられるなら、全ての権威も私たちの内にあるのです。聖霊も私たちの内におられるので、御霊の実も私たちの内にあります。実を結ぶようにせっせと宗教的に頑張る必要はありません。枝は木につながっているだけで、実を自然に結ぶようになるのと同じように、私たちもイエスとイエスの言葉に留まる、
イエスの教えに従うだけで良いのです。

 全ての霊的祝福、御霊の実、恵みの現れ(御霊の賜物)、神の力、神の国も既に私たちの内にあります。何故なら、イエスご自身が私たちの内におられるからです。しかし、私たちが神に信頼しないのであれば、それらを内に持っているだけで、その恩恵を体験できないのです。多くの人は、自分で信じる事をせずに、ただ神が手を伸ばしてくれるのを期待しているのですが、そのようなケースは稀です。しかし神は、私たちの信仰によって祝福を現実化させる法則を定められたのです。この信仰の法則によって私たちが歩む事は、神の御心なのです。