御霊の実について

 御霊の実(愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制)とは、神の性質そのものであり、神のアイデンティティーを示しています。ですから、必ずしも良い行いが御霊の実とはなりません。何故なら、良い行いとアイデンティティーは必ずしも一致しない事もあるからです。御霊の実の中でも、愛は最も重要で、その他の実の土台になっています。何故なら、愛から喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制が出てくるからです。

 愛によって働く信仰だけが大事(力あるもの)であるとパウロは言いました。つまり、信仰による行いは、愛という御霊の実が動機になっている事が大事だと言ったのです。動機が不純な行いは、その行いが良いものであっても、愛ではありません。多くのクリスチャンが御霊の実を結ぶ為の努力をしていますが、その殆どは律法主義から考えています。御霊の実を結ぶために慈善を行うのではなく、御霊の実があるからこそ、自然とそれが行いに出るのが本当の実なのです。或いは、信仰によって働く行いならば、その行いは神のアイデンティティーが自然と外に現れるもので、肉の努力による行いとは違います。御霊の実は神の性質であるので、私たちの新しい性質の事でもあり、それに基づいた良い行いによって現されるものなのです。ですから、一般には、キリストにあって自分が何者であるかを理解していない人は、正しく御霊の実を現す事ができないか、もしくは、ひたすら困っている人を助ける事ばかりを考えて、無心で行動している人だけが、御霊の実を現す事が可能なのです。これら以外の良い行いは、不純な動機によるもので、そこには御霊の実がありません。

 
マタイによる福音書 7:16「あなた方は彼らを実によって見分ける事になります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。」

 御霊の実はその人のアイデンティティーそのものです。ですから、ぶどうの実がぶどうの木のアイデンティティーのように、実を見ればその人がどういう人かすぐ分かるのです。人の内側にあるものがその人の実として外に現れるのですから、実はその人がどういう人かを示すのです。一時的に、その人の本心とは異なる行いを現す事は可能ですが、人は自分自身をその言動によって現してしまうものなのです。ですから、人のアイデンティティーを現す実を見れば、その人が良いか悪いか判断できるとイエスは教えられたのです。

 私たちのアイデンティティーは内に住まわれるイエスがその要の石です。ですから、人が純粋な動機に基づく私たちの信仰に基づく行いを見た時には、私たちの立派な行いや宗教心などに目を留める事はなく、むしろイエス・キリストが私たちと共におられるという事を見るでしょう。もちろん、この目標に向かって私たちが成長していなければ、この聖書の約束は単なる理想でしかありません。イエスご自身を外に現す事が私たちのするべき事なのです。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師などのタイトルにふさわしい歩みを人々にアピールするのではありません。イエスが共におられる事を私たちは現すのであって、それが世の光としての私たちの役割なのです。

 ポイントは、私たち自身のアイデンティティーを意識した歩みの中から、御霊の実を結ぼうとする事です。それが自然と外に現れるような歩みが大切なのです。木の実は枝からなりますが、枝自体は自分で努力して実を結ぶ事はしません。枝は単にその木に繋がっているだけです。私たちはイエスというぶどうの木に、その枝としてしっかりと繋がっていれば良いのです。その意味は、イエスとイエスの言葉に繋がっているという事であり、イエスの教えに従って歩むという事です。それを知らずに、御霊の実を結ぼうと努力するなら、あなた自身の肉が次第に出てしまうでしょう。