神はサタンに許可を与える? 2

ヨブ記の理解

 それでは、ヨブ記をどう理解するかについて解説します。まず、仮にサタンが勝つようなパターンを考えてみましょう。「神の許可によってサタンに苦しめられたヨブはとうとう神を呪った」というシナリオです。つまり、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者」であっても「神の許可」次第で悪魔から苦難を受け、その結果、神を呪う事もあるという内容です。ヨブ記のストーリーがもしそうであったなら、それを読む人は誰も神を信頼する事はしないでしょう。もう一点考える所は、ヨブ記が旧約時代の書物であったとしても、聖書はどの書物も必ず「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」になる為に存在しているという事です。「神の人が、すべての良い働きの為にふさわしい十分に整えられた者となる」為に聖書は書かれているはずです。ですから、「教えと戒めと矯正と義の訓練との為に有益」にならないような聖書の解釈は間違っているのが明らかです。

 「神でも時には悪魔に許可を与え、病気という試練を私たちに与える」という愚かな読み方は、私たちにとって有益ではありません。何故なら、そのような事を信じている人は、信仰に立って病気と戦う事をしないからです。彼らは癒す神を信じているよりも、病気という試練を与える神をもっと強く信じているのです。しかし私たちが、悪魔がこの世の支配者として好き勝手にしているという事実を知らず、神が悪魔に許可を与えるとし、神が試練として私たちに問題をもたらすなどと考えているなら、私たちはまだ霊的に幼いのです。善悪を判断できないからです。

古い契約の視点 vs. 新しい契約の視点

 古い契約の視点でヨブ記を読むと、神がサタンに悪事をしてもよいという許可を与えた、と見えてしまいます。何故なら、悪も神がもたらすと当時の人々は考えていたからです。しかし、新しい契約の下にある、新しく生まれ変わったクリスチャンなら、そうではない事を知っているべきです。何故なら、私たちは神を「アバ、父」と呼べる程の信頼関係の中にあり、神の御心を知っているべきだからです。私たちは、神にパンを下さいと言えば、それを与えて下さるという父親のような良いお方だという事を知っています。それならば、神は常に良いお方だという定義を崩さずにヨブ記を読む必要があります。

 次に、何がどうなるか全ての結末を知りつつ「彼をおまえの手に任せる(実際には許可を与えてはいない。直訳では手の内にある)」と神が言っている事を私たちはしっかりと理解するべきです。神の視点でヨブ記を読む必要があるという事です。サタンの手に任せると神が言っても(厳密には翻訳された聖書がそう言っても)、サタンの思い通りにはならない事を神は既に知っていたのですから、それは「許可」にはならないのです。あなたが未来の結果を知りつつ誰かに「あなたの思う通りにしなさい」というなら、それを知らない人にとっては「許可」に見えますが、あなたにとっては「許可」を与えている事にはならないのが分かるでしょうか?このような見方は古い契約の視点で考えている人にはありません。

神を良いお方だと知らない理由

 神はいかなる人に対してもサタンに「許可」を与えて苦しめる事(病気という試練を与える事)をしません。ヨブが潔白で正しい人だからだという理由で神は何か祝福をしたのとも違います。「正しい人が祝福を受けるにふさわしい」という考えも古い契約に基づく見方です。新約聖書をよく読んでイエス・キリストについての御言葉をたくさん蓄えている人は、神が人を祝福する唯一の理由を知っています。それは、神が恵みに満ち溢れているお方だからです。

 ヨハネ 1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 イエス・キリストの十字架を見るまでは、人は完全に神の恵みを理解する事は不可能です。従って、ヨブやその他の多くの旧約時代の人たちには、神の恵みに対する理解が限られていました。神は何故恵みを与えるお方なのでしょうか?それは、恵みと神の性質に関するものです。究極的に言えば、恵みはもはや神ご自身であって単なる漠然とした概念ですらありません。もっとストレートに言いましょう。恵みとはイエス・キリストに他なりません。すなわち、父なる神が私たちに与えた恵みは、私たちの人間的な考えによって定義されるような見える形の祝福だけではなく、イエス・キリストというご自分の御子であり、私たちにとっての主なのです。

 恵み(イエス・キリスト)をよく知らないでいると、ヨブのように「命を与える神は命を取る」という不信仰の考えになります。しかし、イエスは一匹の羊の命を救う為にもご自分の命を捨てるお方なのです。

悪いものを良いものに変える

 ヨブ記 2: 6「主はサタンに言われた。「では、彼をお前の手に任せる。ただ、彼の命には触れるな。」

 神はあえてサタンの思うようにさせているのが分かりますか?逆に、そうとも知らないサタンは、神から「許可」をもらえたと考え、自分が有利な立場に立ったと思ったのです。ところが、それは有利にはなりませんでした。

 サタンは彼の自由意志によってヨブを殺す事もできました。しかし、神はサタンがヨブを殺す事はしないという事も既に知っていました。

 次の二か所からもヒントがあります。

 ヨブ記 1:11「しかし、手を伸ばして、彼の全ての財産を打ってみて下さい。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」


 
ヨブ記 2: 5「しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみて下さい。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」

 サタンは二度もヨブが神を呪う事を願いました。これが彼の悪意です。ヨブの持ち物を全部滅ぼしても、サタンにとっては何の得にもなりません。地上の全ては既に彼の支配の下にあったからです。ヨブの命さえもサタンにとってはどうでもよい事だったのです。ヨブが死んだからといって特にサタンが何かの益になるわけではありませんでした。サタンがこだわったのは、ヨブが神を呪う事、つまり、ヨブの自由意志を悪い方へ向ける事でした。神は、サタンがヨブの命を狙ってはいない事を最初から知っていたのです。

 元々サタンは彼の自由意志によって勝手に何でもできました。ヨブを殺す事もです。しかし、ヨブの自由意志を誘導したかったサタンは、ヨブを殺す事を目的とはしていませんでした。その思惑を既に知っていた神は、あえてサタンに「許可」を与えたように「彼をおまえの手に任せる(直訳では手の内にある)」と言ったのですが、神が知っていたのはサタンの悪意だけでなく、ヨブが神を呪う事をはしない事、つまり、サタンの作戦が失敗に終わる事も全て知っていました。

 神はサタンに悪事をしてよいという「許可」を与えたというよりも、むしろ本来は自由に何でも出来たサタンから「許可」を取ったのは神なのです。サタンから「許可」をもらった神が逆に彼に「制限」を与えたのです。サタンは自分の作戦が、ヨブを殺す事が出来ないという「制限」付きになるとは知らなかったのです。元々そうする気はなかったサタンは、そのように神に命令されてもすぐに同意できました。

 
ヨブ記 1:12「主はサタンに言われた。「では、彼の財産を全てお前の手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」

 神は最初のサタンの挑戦の結果を知りつつ、「彼の身に手を伸ばしてはならない」と言いました。サタンは律義にもその命令を守ります。

 
ヨブ記 2: 6「主はサタンに言われた。「では、彼をお前の手に任せる。ただ、彼の命には触れるな。」

 神は2回目のサタンの挑戦の結果も知りつつ、「ただ彼のいのちには触れるな」と命令しました。サタンは行儀よくその命令に従います。

 ヨブが一度も神を呪ってない事実はサタンの敗北を示します。確かにヨブは自分の生まれた日を呪いました。また、ヨブは自分の義を主張してそれが彼の罪となったのですが、「命を取る神」だと考えたヨブも神を呪う事はしなかったのです。

まとめ

 神はサタンに悪事ができる許可を与えたという見方は間違いで、神は被造物に自由意志を与えているという見方が正しい見方です。サタンは既にアダムから権威を奪っていたので、彼は何でも悪い事をしていました。ですから、許可なしに悪い事をずっとしていたのです。神は自由意志をコントロールしません。それをコントロールすると、それはもはや「自由」ではないからです。しかし、被造物が自由意志で悪い事を企んでいる時に、神はそれを修正して良いものに変えようとしたり、何らかの解決の方法を備えて下います。そのような神の良い計画があったという記録がヨブ記です。

 「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者なら全ては万々歳でうまくいく」と考えるべきではなく、サタンの攻撃をしっかりと認識して「悪魔に立ち向かって足で踏みつける」のです。*ちなみに、「キリストの血潮の宣言」ばかりが霊の戦いでもありません。その宣言に力が解決をもたらすとは弟子たちも記していないです。

 ヨブは信仰がなかった為に、サタンにその弱点を突かれました。アブラハムのように「神はいつも正しい」としていないかったので、ヨブの場合は彼の無知が試練をもたらしたようなものです。ですから、「病気という試練を受けた義人ヨブ」ではなく、「自らの不信仰でサタンに機会を与えてしまったヨブの試練」が教訓の部分です。

 神はサタンや人の自由意志によるその悪事をそのままにしておく事はありません。悪いものを良いものに変えるのが神の御心です。もちろん、神の御心や計画が全てうまくいっているわけではありません。サタンの誘惑が成功したケースもありますが、ヨブ記では失敗に終わったという記録です。サタンが大成功したケースは、多くのイスラエル人をつまずかせた事でしょう。しかし究極的に言えば、サタンの計画 vs. 神の計画は常に人間の自由意志が決定的です。

 そういうわけで、ヨブ記に基づいて誰かが「時には神は私たちに病いという試練を与える」という趣旨のメッセージをしているのなら、その教えは間違いです。その解釈は「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」になりません。その教えは、単に「神の御心は全く分からない」とするだけです。むしろ、病気を感謝するというおかしな信仰を植え付けてしまうほど悪質なものです。

 「病気はサタンから来るけれどそれを許可しているのは神」とした場合、それを信じている人は悪魔に立ち向かう事をしません。しかし、神の武具を身に着けて御霊の剣を使って戦う事をよく理解している新しい契約にいる信者は、癒しは霊の戦いという事を知っています。

 恵みが十字架によって明らかに示された後では、クリスチャンはサタンの悪事をストップさせ、地上を神の国に変えていく仕事をします。それは信仰のなかったヨブにはできなかった事ですが、神の子供として大胆に歩む者たちにできる事なのです。