祈りとは 4

 マタイ 6:13「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい。」

 ギリシャ語の「試み」は「誘惑する」という単語と同じです。ここでは「誘惑に会わせないで」が適切でしょう。何故なら、神が人を誘惑して悪に導く事があると当時の人は考えていました。彼らは良いものも、悪いものも全て神から来ると考えていました。病気も、その人の罪ゆえの神からの刑罰だと考えていたのです。

 ヤコブ 1:13「誰でも誘惑されている時、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑される事のない方であり、ご自分で誰かを誘惑する事もありません。」

 「誰でも誘惑されている時、神に誘惑されていると言ってはいけません」とヤコブが注意した以上、ユダヤ人(イスラエル人)が、神は誘惑して悪に導いたり、災いをもたらされると考えていた事は明らかです。しかし、イエスによって明らかにされた真理によれば、私たちは既に罪からも病気からも、そしてあらゆる悪からも救われているのです。

 ローマ 16:20「平和の神は、速やかに、あなた方の足の下でサタンを踏み砕いて下さいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなた方と共にありますように。」

 サタンを踏み砕くのは誰の足でしょうか?私たちはサタンを怖がる必要はないのです。「悪からお救い下さい」という祈りは、十字架の後ではもう意味がないのです。何故なら、イエスが既に勝利を得たからです。

 さて、ここまでの解説によると、主の祈りの後半部分は、私たちにとって必要にない内容だという事ですが、実はそれに気づく事が重要です。その気づきと関連しているのがイエスの次の言葉です。

 マタイ 6:8「ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 この個所を読んで、では一体何の為に祈るのかという所から考えた事はあるでしょうか?イエスは異邦人のように祈るなと注意してから、「主の祈り」でどのように祈ったら良いのかのヒントを示したのです。そしてその中で、彼らの今までの祈りとは根本的に違う祈りについて示されたのです。もし、神が私たちの祈りの内容を既に知っているとしたら(事実その通りです)、私たちは何の為に祈るのでしょうか?まさにそれに気づかせる為にイエスは主の祈りを用いて、祈りの目的やその意味についても教えられたのです。何故なら、律法の下での祈りはその目的や意味が誤解されており、形だけの、宗教的な儀式となっていたからです。

 マタイ 6:31「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。」

 クリスチャンにとって、心配が祈りの原動力となっていると最初の記事で書きましたが、それはこの聖書の箇所からも明らかです。多くの人の祈りが主の祈りの後半部の項目(以下の三つ)を心配して祈っています。そしてそれらを願い求めるというのが、当時のユダヤ人の儀式化された祈りでした。

1.日ごとの糧
2.罪の赦し
3.悪からの救い

 上の三つを心配して祈る必要がないというのが、恵みによって明らかにされている真理ですが、それでは何故イエスはこれらの事を含めたのでしょうか?その理由は、祈り方を教わった弟子たちがまだ律法の下にいたからです。律法の考えを持っていた彼らユダヤ人は、律法の下での祈りしか分からなかったのです。イエスは彼らが理解できる範囲で、真理を解き明かそうとされました。

 ですから、主の祈りの後半部分は彼らが理解できる律法の下で彼らが祈りについて理解していたものが含まれているのです。しかし、だからと言ってイエスは律法を教えていたのではありません。むしろイエスは律法を成就し、恵みを実現される為に来られました(ヨハネ 1:17)。イエスがモーセの律法を引用し、その解説をなさる必要があったのは、モーセの律法の限界を彼らに悟らせる為だったのです。主の祈りでも、モーセの律法に基づく祈りの描写があるのは、それをするようにではなく、その事にはもはや力はなく、恵みがもたらす真理はそれらを超えている事を悟らせる為だったのです。もちろん、真理を知るには、御霊が必要なので、当時の彼らには、主の祈りはまだ理解できなかった内容だったのです。

 ここで鍵になっているのは、聖霊によって初めて私たちは主の祈りでイエスが言いたかった事を悟れるようになるという真理です。ですから、基本的に主の祈りは、恵みの下にある人たちがする祈りについてです。聖霊はイエスの言った事を思い起こさせ、私たちを全ての真理へと導きます。聖霊は聖書の全ての個所を理解する為の最大の鍵です。イエスの教えのたとえ話は、人間的な聖書の研究に頼りすぎず、聖霊に頼る必要があります。既に私たちのうちに留まっている注ぎの油が私たちに真理を教えるのです。

祈りとは 5に続きます。