疑うとは

 「疑い」という意味のギリシャ語が、新約聖書中に3つあります。「Di-stasis」、「Mete-orizo」、そして「Dia-krino」です。「Di-stasis」は「2つのポジションをとる」 というのが直訳です。

 マタイ 14:31「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」 

 「なぜ疑ったのか」の「疑う」の語は、「Di-stasis」です。「2つのポジションをとる」という意味です。ヤコブは二心のある人の事について、次のように言っています。

 ヤコブ 1:6-8「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かを頂けると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。」

 「Mete-orizo」は新約聖書では一度しか出ていません。「移り変わり、変化」の意味があります。

 ルカ 12:29「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。」 

 私たちは何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、などといった事の判断を色々と考える(気をもむ)べきではない、とイエス様は教えています。ただ主を信じて歩めば、逆に私たちの必要を満たすのです。

 「Dia-krino」は判断するという意味があり、これは「良い意味での疑い」とも言えます。つまり、そのまま鵜呑みにするのではなく、良いものを見極めて判断するという事です。

 第一コリント 11:29「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対する裁きを食べ、また飲む事になるのです。」 

 「わきまえないで」が「Dia-krino」です。ここでは、よく考えずに行動するのではなく、吟味したり、良い判断を下さなければならないという意味が含まれています。

 第一コリント 14:29「預言する者たちも、二人か三人が語り、他の者たちはそれを吟味しなさい。」

 「吟味しなさい」という語は「Dia-krino」であり、ここでも良い意味での「疑い」が使われています。


 ところで、真理に対して「吟味する」というのは悪い意味になります。一度真理が分かった後で疑い、それが本当かどうかを分析して確かめるというのなら、その場合の「Dia-krino」は否定的な吟味になります。物事の真理を確認する為に吟味する事は正しいのですが、真理を知った後に、それを分析する(吟味する)のなら、それはもう「疑い」になるのです。

 信仰とは、何も迷う事もなく、その他の選択肢を考慮しない、はっきりとした決断であるというのが聖書の教えです。この判断には、肉の思いからの情報を参考にするべきではありません。聖書の真理に基づく判断(真理に基づく霊的判断)であるべきです。真理に対しては吟味や分析をしたりして疑わず、ただ素直に信じるだけで良いのです。