「悔い改め」の定義 2

罪の告白と救い

 ある人々は「神様、ごめんなさい。私の罪を赦して下さい」という罪の告白が救いの必須条件だと考えています。しかし、人は「救われる為に」自分の犯した罪を反省しなければいけないという事ではありません。反省は良い事であって、誰もが反省するのですが、反省に罪を取り除く力があるのではなく、イエスの贖いによる罪の赦しに力があります。もう一度言いますが、私たちが反省した後で神が私たちを赦すのではなく、まだ私たちが罪人であった時にイエスは死んで下さったのです。私たちのするべき事は、神の赦しを信じて受け取る事です。

 第一ヨハネ 4:9「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私達に命を得させて下さいました。それによって神の愛が私達に示されたのです。」

 人の罪が既に十字架によって赦されているという真理は変わりません。そのイエスの恵みを信じるだけで救われるのです。ですから未信者の罪を指摘して、犯した罪を深く反省するように強いるべきではありません。通常の人は良心が正しく機能しているので、自然と反省する気持ちを持っています。罪を指摘するのはモーセの律法の役目です。イエスはいつも「私はあなたを罪に定めない」と言われ、まず愛を示し、その愛によって彼らが考えを変える事(悔い改める事)を期待しました。ですから、大事なのは未信者に恵みの福音を最初に伝える事であり、神の恵みを信じるように促す事です。十字架の恵みを受け取らないような人には、キリストを拒む事がその人の罪となって、それに対する裁きがある事を教えたら良いのです。

 従って、未信者の場合は、イエスの十字架の業を受け入れるように考えを変える事を促し、その後で罪を犯さないように考えを変える方法(思考の一新)を教えるのが良いでしょう。もう一度言いますが、反省自体は悪くありません。彼らも、自分たちの犯した罪が赦されているという真理を聞けば、自分たちのした悪さに気づくので、自然と反省する気持ちも出てきます。確かなのは、「反省しないと神はあなたの罪を赦しませんよ」という教えは間違っているという事です。イエスの所へ行く前に、人はどうして罪から離れるようになるのでしょう?自分で反省して罪から離れるようになるのなら、イエスによる救いはもう必要ない事になります。しかし、聖書ではイエスが罪を負われたので私たちが罪から離れる事ができると教えています。

 第一ペテロ 2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒やされた。」

未信者に対して

 私たちは、未信者に対して、彼らの罪についてその時点でとやかく言うべきではありません。それはサタンがする事なのです。しかし、イエスは罪人を招いて「罪について彼らの考えを変えさせる」為に来られたのです。未信者に罪を意識させて反省させる為ではなく、全ての罪が赦されたという恵みを教えて救いに至らせ、神の恵みの素晴らしさを教える為にイエスは福音を伝えたのです。もちろん、救われた人たちは、その恵みの故に、今までの間違った人生の歩み方を反省するでしょう。神の恵みを知った結果として反省するのであって、罪を指摘されて反省する事ではありません。その意味を込めてイエスは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われたのです。「罪深い人たち。犯した罪について深く反省しなさい」と言うのなら、それは「御国が近づいた」ではなく「モーセの律法が近づいた」になってしまいます。

 もし、御国の福音が「あなたの犯した罪について反省しなさい」という教えであったなら、それはモーセの律法の教えと同じになります。モーセの律法はいかに人が罪だらけなのかを指摘します。しかしイエスは、人の罪を指摘する為に来たのではなく、罪人を招く為に来られました。

反省の悪循環

 クリスチャンは良心が清められているので、善悪の判断が未信者よりも敏感です。それに加えて、「悔い改める=反省する」という定義の誤解から、「常に反省しましょう(悔い改めましょう)」という宗教的な文化が教会の中に長くあったので、多くのクリスチャンは必要以上に反省ばかりしています。しかし、こうした律法的な反省によって私たちが罪から離れる事はありません。反省しても、また同じ罪を犯してしまい、さらに深い罪意識の中に入って行きます。そして、その罪意識から逃れる為に、さらに「反省の悔い改め」をするのですが、また失敗してしまいます。こうして罪悪感の中に深く入ると、より強い束縛の中に入ります。罪意識は私たちと神の距離を広げてしまい、神と顔を合わせられないと思うようになります。しかしイエスは、その悪循環を十字架で断ち切ったのです。

 優先すべきものは常にイエスの十字架の真理です。真の反省はその後になります。神の恵みに触れる前に罪を反省しようとするなら、自分で自分の罪を処理してしまう考えに捕らわれてしまいます。私たちはアダムが隠れたように、自分の罪を意識して神の前に行く事をためらう必要はありません。そのようなためらいは、御言葉を読む事や祈りを止めさせたり、兄弟姉妹と集う事に対しても足を遠ざけてしまいます。他のクリスチャンから励ましを受けないで一人で閉じこもっていると、また罪を犯すという悪循環に入るでしょう。しかし、私たちは罪を犯してしまった時にこそ、大胆に神の御前に出て罪の赦しを宣言するのです。神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちを清めて下さいます。これは新約聖書で明らかにされた重要な奥義の一つです。

反省のタイミング

 自分の犯した罪を反省するのは、むしろ、イエスの恵みや愛を知った後や、救われた後の方がよりスムーズに出来るでしょう。アガペーの愛の促しは人を自然と悔い改め(思考の一新)に導く事ができます。イエスが既に罪を赦して下さったという真理にあなたの考えを変え、「主が私を愛して赦して下さったのだから、このままではいけないな。よし、頑張ろう!」と言って反省をするなら、それにはとても力があります。しかし、キリストの十字架を意識せず、罪意識から反省するなら、それは自分で自分の負いきれない重荷を処分するようなもの(宗教)です。しかし、イエスが私たちの重荷を負ってくれたのです。

 ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 あなたが反省したので神があなたの罪を赦して下さったのではなく、あなたがまだ罪人であった時に、あなたの罪を赦す為にイエスが死んで下さったのです。これが神の愛です。