献金について 1

 金銭的なトラブルは、教会に大きなダメージを与え、未信者にも誤解を与えますので、私たちはしっかり聖書が何を言っているか理解する必要があります。新しい契約の下では、什一献金は決して強制されません。又、様々な名目の献金なども、必要ないのです。お金を中心にして、教会活動をするなら、集まる信者の成長に目を向けられないでしょう。信者の献金に依存し過ぎている場合、あらゆる教会の活動の動機が献金に基づくようになりがちです。

 ルカ 16:9-11「私はあなた方に言います。不正の富で、自分の為に友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなった時、彼らがあなた方を永遠の住まいに迎えてくれます。最も小さな事に忠実な人は、大きな事にも忠実であり、最も小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実です。ですから、あなた方が不正の富に忠実でなければ、誰があなた方に、まことの富を任せるでしょうか。」 イエスによれば、最も小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実だというのです。お金の管理は、最も小さな事だとし、当然それを管理しているべきだと神は要求しておられるのです。そうでないならば、霊的な、より責任重大なものは任せられないと教えているのです。この箇所から、お金を管理する事は、神が私たちクリスチャンに望んでいる事である事が分かります。地上を治める神の子であるならば、世を代表する富を上手に管理する必要があるのです。

 いわゆる「献金」もクリスチャンが行う、金銭的管理の一つですが、私たちが理解しなければいけない所は、新しい契約の下での献金が何かというものです。恵みの下にいる事を忘れて、モーセの律法に基づく献金にこだわる必要はありません。献金をすれば祝福される、という事ではないのです。献金と癒しを結びつけてしまったメッセージや、献金を強制させる事もできません。

 新しい契約の下での経済的な祝福は、信仰に基づいて喜んで与える者が受け取る事になっています。そして、癒しなど十字架での御業で既に完了している祝福に関しては、献金との関係が一切ありません。私たちが信仰によって献金をしても、肉体の癒しとは関係ありません。癒しが約束されているのは、キリストの打ち傷という贖いのわざによってなのです。献金する事で癒やされるなら、イエスの体に受けた傷は何の意味があるのでしょう。献金によって神から祝福を受ける事があるとすれば、それは経済的祝福なのです。

 ルカ 6:38「与えなさい。そうすれば、あなた方も与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなた方が量るその秤で、あなた方も量り返してもらえるからです。」

 什一献金についての教えで、よく引用されるマラキ書の3章は、モーセの律法に基づくものなのであって、新しい契約の中に入った私たちに対しては、何の効力のないものになっています。モーセの律法がイエスによって成就された今、再びモーセの律法に基づく献金のやり方に戻る必要はありません。古い契約は、新しい人を着た私たちにとっては、古く廃れたものなのです。従って、マラキ書3章の聖句を土台にして献金をするなら、私たちは古い契約に戻っているのです。

 第二コリント 9:5-7「そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらう事が必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらう為です。私が伝えたい事は、こうです。僅かだけ蒔く者は僅かだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は、喜んで与える人を愛して下さるのです。」

 パウロが言う献金は、信仰に基づいた行いを強調しています。「強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい」と言っています。私たちも強いられてではなく、喜んで与える者となるべきです。何故なら、神は「私が好むのは、憐れみであって、いけにえではない」と書いてあるように、私たちの行う儀式を見るのではなく、私たちの心を見るからです。ですから献金をするという行為そのものに力があるのではなく、私たちの信仰による行いを神は喜び、それを見て私たちを祝福されるのです。逆に言えば、信仰のない献金は意味がありません。例え、周りの人には良いように見えても、信仰が伴っていなければ、その人間的な献金は死んだ行いなのです。

 信仰を知らなかった旧約時代の人たちは、儀式的に献金をしていたに過ぎません。律法の本質をよく理解していなかった為に、全ての良い行いが上辺だけの宗教になってしまったのです。イエスはその束縛から人間を解放して下さり、自由に喜んで与える者になるようにして下さいました。イエスの教える律法は完全で自由な律法です。それは愛に基づく教えであり、献金も愛に基づくのです。

  献金が人を愛するという動機で行われない場合、それは利己的なものになります。確かに、信仰によって献金を捧げる人は、神からの経済的祝福が得られます。しかし、お金で富を買うという目的で献金をしようと考えるなら、献金をする真の目的を見失い、貪欲な動機に基づくものになってしまいます。ですから私たしは、動機を愛に置きましょう。私たちが経済的に豊かになるのは、私たち自身が贅沢に暮らす為ではありません。肉の思いで判断すると世の富を追う事になってしまいます。しかし、御霊の思いによって歩むべき私たちは、自分たちが経済的に祝福された事を通して、他の人を助ける事を考えましょう。ですから、献金により経済的に豊かになる必要があるとすれば、それはお金を必要な人に分け与える為なのです。これが大人の考え方であり、受けるよりも与える方が偉大であるという意味なのです。

献金について 2に続きます。