罪の性質 2

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」 

 新しい霊によって生まれ変わったクリスチャンは、義人であり、聖い者として認められています。それは、私たちから罪が取り除かれたからです。それならば、どうして私たちは罪の性質を持っていると考えるのでしょうか?むしろ、リストの御業の恵みによって、私たちは義人となったと信じるべきなのです。実際、ヨハネはキリストにあるクリスチャンは罪を犯す事がないと教えているです。もちろん、その条件として必要なのが、キリストの思考によって、キリストの義によって歩む事です。

 ローマ 6:14-18「罪があなた方を支配する事はないからです。あなた方は律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんな事はありません。あなた方は知らないのですか。あなた方が自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。神に感謝します。あなた方は、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」

 殆どのクリスチャンはちょうど未信者と同じように生きていて、罪を犯す者として自身を見ています。それなら次の聖句はどのように捉えるべきでしょうか?

 ローマ 6:6-7「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。死んだ者は、罪から解放されているのです。」 

 私たちの「古い人」はキリストと共に十字架でつけられ死んだ事になっているのです。これは、人の古いアイデンティティーを生み出していた罪が取り除かれた為に、古い人は死んでいる状態であるという真理を表しています。

 コロサイ 3:3「あなた方は既に死んでいて、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」

 クリスチャンは新しい霊として生まれ変わったので、古い人や肉のものに対して死んでいるのです。それゆえに、罪を犯さない状態にあるべきです。ただし、この聖句を信じないのなら、その歩みは未信者と同じになってしまいます。この御言葉を信じる事が、罪に関わる問題から抜け出す第一歩なのです。

 ローマ人 6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、新しい命に歩む為です。」

 新しい命に歩む事ができるようになったクリスチャンなのですが、それを知らないでいると、罪が取り除かれているにも関わらず、「古い人」のままで生活してしまうでしょう。知らないがゆえに、ある意味、死んでいるべき古い人を復活させてしまうのです。ただし、この真理を知っただけで直ぐに罪を犯さなくなるわけではありません。何故なら、私たちの思考はまだ一新されていない、肉の部分があるからです。ですから、その肉の思いを御言葉の真理に変える必要があります。この成長過程においては失敗する時も多々ありますが、次第に信仰の成長が加速していき、結果として、罪を犯す事もなくなって行きます。これは宗教的な努力によるものではなく、思考の一新によって信じた結果の実なのです。

 私たちの思考というのは経験や学習という過程を経て形成されていきます。一度ある種のパターン思考が確立すると、人はそのように考える傾向を持ちます。確立された考えのまま長い間生活していると、それとは真逆の考え方に切り替える事は難しいものです。いわゆる伝統的な教えなどは、人をある種の考えに強く縛ってしまいます。一度そうなると、人は伝統だからというだけの理由でよく理解しないまま、儀式を熱心に行ったりします。

 マルコ 7:6-8「イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなた方偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。彼らが私を礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

 一般的に広く教えられている教理や神学の多くは、人による伝統の教えになってしまっています。その全てが間違いではないのですが、その全てにおいて、どこか間違いがあります。それらは主に、古い契約の視点で見ている為に、真理が宗教的な行いと結び付けられて、モーセの律法の教えに戻ってしまっているのです。罪の性質についても同様です。罪を取り除く為にキリストが十字架に掛かって下さったのに、神学は信者でもまだ原罪を持っていると教えるのです。

 「クリスチャンでも原罪はまだある」のが正しい真理なのか、それとも世の罪を取り除いた神の子イエス・キリストの十字架の御業が真理なのか、そこに答えがあります。しかし答えは明白なはずです。イエスの流された血が、全ての罪を取り除く聖なる血である事が理解できれば易しい問題です。それでもまだよく分からないのなら、ローマ書7章の誤解が主な原因となっているからでしょう。ローマ書の7章と8章をしっかりと理解していれば、人は肉の思考だけではなく、霊的思考によっても歩む事が可能であると知る事ができます。そして、私たちは肉の思考によって歩む必要がないのです。

 クリスチャンでも肉的思考になる傾向があるのは、思考そのものは新生の後も変わっていない為です。「原罪」と呼ばれる罪の性質は、十字架の御業によってもう存在しないのですが、肉の思いはまだ知性の中に、そして古い考えはそのまま脳に記憶として残っています。ただし、それらに頼って生きなければならない訳ではありません。確かに、イエスは十字架で肉の思いや古い記憶を罪と一緒に取り除く事はしませんでした。何故なら、各自の肉の思いそのものは、魂の領域にある、思考や知性の問題だからです。神は私たちの霊は再創造されましたが、私たちの魂や知性はそのままにされたのです。何故なら、それらを再創造するという事は、私たちに与えた自由意志を取り去るような事だからです。実は、この自由意志こそが神からの素晴らしい賜物であるのです。

 主の十字架の御業によって、もう私たちは罪から解放されています。ですから、御霊の思考によって歩む事が可能なのです。ただし、御霊の思考になるように常に聖書の言葉を蓄えて信じ続ける必要があります。これは律法の行いとは違い、御言葉による信仰の歩みです。クリスチャンでも、肉の思考のまま長年人生を過ごしてきたなら、諸々の判断が未信者と同じになっていてもおかしくありません。そうではなく、全ての事をイエスの教えに沿って考えるのが御霊の思考による歩み方です。

 イエスと使徒たちによって明らかにされた真理を信じて、それを普段の生活で実践し、新しい人としての視点によって物事を判断していないのなら、あなたの考えは肉の思いなのです。それによって歩んでいるうちは、罪の奴隷に戻ってしまいます。そういう人が、とっさの判断が要求される場面では、つい感情的になって怒ってしまうでしょう。普段の肉の思いの影響による、悪い習慣が出て来るからです。そうではなく、真理の御言葉で全てを判断するようにします。そのような歩みは非常に難しいと思うかもしれませんが、それはイエスの教える新しい考え方に慣れていないからです。クリスチャン成功の秘訣は、考え方を変える(本当の意味での悔い改め)だけで良いのです。

  ローマ 12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにする事で、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 心の一新する、つまり、思考を新たにするのは、主に私たちです。神が私たちの代わりにやって下さる事ではありません。パウロは思考の一新によって自分を変えなさいと促しています。「変えて頂きなさい」という訳は、神によってそうして頂きなさいのニュアンスがありますが、原文ではそのように書かれていません。思考の一新については、私たちが何かをアクションを起こさなければならないのです。何故なら、クリスチャンにはそれができるからです。罪を犯さずにはいられない未信者と何も変わっていないのなら、どうして私たちは罪と死の原理から解放されていると言えるのでしょうか?イエスを信じていると言っても、生活が何も変わっていないのなら、どこかがおかしいはずです。一般的なキリスト教から見れば、「それはあなたの努力が足りないから」となるかもしれません。しかし、宗教的な律法の行いと信仰の成長は無関係であり、信仰のない行ないによる義はイエスの教えではありません。

 多くのクリスチャンは、そもそも正しい成長の道も知りません。そこへ向かってもいないのです。「原罪」や「罪の性質」などを持っていると思いながら、信仰の成長を考えている時点でアウトです。そうではなく、罪に対して、既にキリストと共に死んでいるという所からクリスチャンの歩みはスタートするのです。

 成長の為にあらゆる慈善を試みるという視点がアウトです。正しい成長とは、御言葉の実践を通して、自然とそのようになるというプロセスであり、御言葉を信じ続けた結果なのです。思考が変わるので、その変化が外に出てくるようになるべきものが私たちの成長なのです。私たちは、外側の言動など目に見える物ばかりに意識を向けていますが、思考が変わらないのなら、その人自身は何も変わっていきません。一時的な慈善パフォーマンスをしても、それは神に栄光を帰すものではなく、はかない人の努力にしか過ぎないのです。