ヨブの忍耐 1

 ヤコブの手紙 1: 3-4「信仰が試されると忍耐が生じるという事を、あなた方は知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなた方は、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 ヤコブの手紙には、信仰についての教えが書かれています。使徒たちの手紙の中で、信仰についての教えが書かれているのは、ガラテヤ、ローマ書とへブル書です。パウロもヤコブも、モーセの律法の観点がいかに欠点があるかを指摘しつつ、信仰を教えています。そして最初の教会の長老であるヤコブは、その信仰が試されると忍耐を必要とすると言っています。信仰と忍耐は深く関係します。

 逆に言えば、信仰とは関係のない忍耐についてヤコブは何かを言っているのではないのです。この理解はとても重要です。何故なら、信仰の伴わない忍耐は聖書的ではないからです。聖書の教える忍耐は単に我慢する事ではありません。クリスチャンは信仰に基づく歩みをするのであって、信仰なしに忍耐すれば何か祝福を受ける事ができるわけではありません。信仰のない忍耐を通して何かを得るという律法主義はパリサイ人の考えです。むしろ、祝福は私たちの信仰次第なのです。これがキリストによって示された真理です。

 ヤコブの手紙 5:7-11「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなた方も耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。裁かれない為です。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなた方は、ヨブの忍耐の事を聞いています。また、主が彼になさった事の結末を見たのです。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられる方だという事です。」

 ヤコブは最後の章でも忍耐について書いてあります。主が来られるのを忍耐を持って待ち望むようにと言い、それはちょうど農夫が雨を待ち望むようだと言っています。そして、預言者たちの忍耐を模範にしなさいとヤコブは書いています。そうして耐え忍んだ人たちは幸いだと言うのです。そして11節で、ヨブの忍耐についてヤコブは言いました。

 一般的にヨブは忍耐の人と考えられていますが、本当に聖書はそのような者として描いているのでしょうか? ヨブ記の一般的な解釈では、ヨブを忍耐の人としていますが、その理由は恐らく次の二つの聖書の箇所からです。

 ヨブ記 1:21「そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 ヨブ記 2:10「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

 神に対して不平を言わなかったヨブは忍耐しているように見えます。 ところが、彼の忍耐は2章までです。

 ヨブ記 3: 1「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」

 3章以降では、ヨブは色んな不平を言い始めました。災いを受けるべきと言っておきながら、苦難から逃れることを切実に求めたヨブは、本当に忍耐の人と呼べるでしょうか?ヨブは、苦難は神からのものだと結論付けます。そして彼は自分の義を信頼し、神を非難しました。

 ヨブ記 6: 4「全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅かしが私に備えられている。」

 皮肉にも、彼の真の苦難は神が彼を痛めつけているという勘違いなのです。その誤解の中では解決が見つからないし混乱するのは当然です。神を悪役と考えているなら、当然神に対する信仰は働きません。つまり、ヨブは信仰の人ではないのです。実際にへブル人への手紙の11章にもヨブは出てきません。彼が信仰の人であるなら、信仰のヒーローとして数えられていたはずです。

 彼の信仰に基づくものではなかった為に、やがて限界に達しました。そして、彼は自分の義を神よりも上にしてしまいました。彼が忍耐できなかった最大の理由は、彼が信仰の人ではなかったからです。神を信じていたなら、彼は恐れる事はなかったでしょう。何故なら、聖書の定義する忍耐は神を信じ続けるという事だからです。

ヨブの忍耐 2に続きます。